雲一つない、晴れ渡る空。 澄んだ空気。 これ以上ない絶好の行楽日和だ。 そして右を見れば、 「千秋はどこ行きたい?やっぱ温泉?電車の中でガイドブック予習してきたから、どこでも付き合うし!」 趣味も合う、気も合う友人。 さらに左を見れば、 「……温泉は宿にあるからもういいだろう。それより美術館は昨日行ったところだけでいいのか?」 面倒見のいい、幼なじみの恋人。 わあすごーい、俺って超ラッキー、と無理矢理テンションを上げようとしたけれど、 (昨日以上に………最悪) さんさんと降り注ぐ太陽も、どんよりとした俺の表情を明るくすることはできなかった。 楽しいはずの旅行は、幕開けから波乱の連続だった。 ぎりぎりまでごねていた優をなだめすかしてトリと二人で温泉旅行へやって来た。 トリと旅行なんて久しぶりだし、温泉旅館も奮発したし、原稿も終わってるし、一応恋人同士だし…みたいな意識もしちゃったりして、嬉し恥ずかし楽し楽しな温泉旅行になるはずだったのだ。 ところが偶然にもトリの知り合いに出くわし、それが何故かやたらなれなれしい男で。 俺と旅行に来てんのに、そいつとばっかりしゃべってるトリにムカムカしていたら、急に仕事で呼び出されたトリは俺を置いて東京に帰ってしまった。 やり場のないイライラに不貞腐れていたのだけど、なんとトリはトンボ返りで俺のところに戻ってきてくれ、めちゃくちゃ恥ずかしい嫉妬の気持ちを吐露するはめになり、まあなんやかんやで仲直りして、食い足らないとか言いやがるトリのせいで何回もしまくった結果(別にいやだったわけじゃないけど)、ぐったりゆったりと朝寝をしようとした途端にわざわざここまでやってきた優の電話に起こされて、現在に至る。
とにかく昨日から色んなことがあり過ぎて、せっかく温泉旅行に来たのに俺は朝から疲労困憊状態だった。 せめてもうちょっとゆっくり寝てたら腰のだるさも何とかなったかもしれないけど、まさか優に、 『ゆうべトリがすご過ぎて腰が痛いからもうちょっと…寝かせて……』 なんて言えるわけもない。 ただでさえこの険悪ムードなのに、これ以上空気が凍ったら俺は凍死してしまう。 だから俺は優の電話があったあと、不機嫌オーラ全開のトリに謝りまくってダッシュで身繕いをして、旅館の外に飛び出した。 どう見ても事後なあの部屋に優を入れるわけにはいかないだろう。 部屋の掃除をしてくれる旅館の人に怪しまれるかも…とも思ったけれど、優に見られるより数倍マシだ。 実は俺たち付き合ってたんです、すいません!と心の中で旅館の人に謎の謝罪をしながら、優の待つ場所へ急いだ。 「おはよ、千秋。……って羽鳥もいるんだ」 「お前こそどうしてここにいる」 (ああああああああ) かくして俺の努力も虚しく、敵愾心むき出しの優と超絶不機嫌のトリと、三人連れ立って観光をすることになったのだった。 「着いた。千秋、ここだろ?」 「うん」 この温泉地には有名な美術館がいくつかあり、結局その中の一つへ行くことになった。 昨日行ったところとはまた趣向の違った作品たちが展示してあり、ここも行ってみたいと思っていたのだ。 確かに昼間から温泉でひとっ風呂浴びるのも魅力的だったけれど、トリの視線を感じ取った俺に選択の余地はなかった。 あんな形だけど、一応約束は約束だ。 (今後一切優に裸を見せるな、だっけ) あの時は優の気持ちを知らなかったからわけがわからないままトリに言われた通りに約束をしたのだけど、今ならあいつの気持ちも少しはわかる。 それに、俺はトリの気持ちも優の気持ちも知ってしまったのだから、これからは俺自身が判断していかないといけないのだとも思う。 優と友人関係をやめることはできないけれど、どこかで線引きをしなければ、たぶんトリが心配するだけでなく、優も傷つけてしまうことになる気がする。 (……もう十分傷つけてるのかもな) 俺とトリが付き合ってることなど一切気にしていないような優の楽しげな表情を見て、胸のあたりが少し重くなるような感じがした。
俺も優も職業柄、絵を見るのは好きなので、目的地はすぐに決まった。 すこし元気が出てきた俺は優とはしゃぎながら、横目でちらりとトリの様子を伺う。 ……さっきより眉間の皺が深くなっている。 二人きりの旅館のはずなのに突然の第三者が乱入しておもしろくない気分は昨日自分も散々味わったから、申し訳ないとは思う。 昨日の仕返しだなんて幼稚なことは考えないけれど、いつものことじゃないかとも思ってしまう俺はやっぱりトリに甘えているのだろうか。 ぼんやりとそんなことを考えていると、入場券を買っているトリの横で優が早く来いと手を振っていた。 「こうやって見ると普通の友達三人組に見えるんだけどなあ」 二人に聞こえないようにそう呟いて、俺は小走りで二人を追い掛けた。
美術館は昨日よりもずっと楽しめた。 昨日は気分がくさくさしていたせいもあって、見たかった絵の記憶がうっすらある程度だ。 だけど今日はトリに優という気心の知れた顔触れなので、何の気兼ねもなしに作品を楽しめる。 特に優とはこういうことに関しては気が合うから、余計に楽しい。 唯一気掛かりがあるとすればトリの機嫌だ。 気付けばここへ来てから一度もしゃべっていない。 いつもならそんなトリの様子に気付かずに、あとから怒らせてしまうところだけど、昨日の俺と今日のトリの姿が重なってしまい、少しだけ罪悪感が顔を出してくる。 「トリ、あのさ……」 「別に。俺のことは気にしなくていい」 取りつく島もないとはこのことだ。 そんな口調で気にしなくていいと言われて、はいそうですかというわけにはいかない。 「せ、せっかくの旅行じゃん。次はトリの行きたいとこ行こうぜ!」 「……考えておく」 それ以上、会話は続かなかった。 続ける度胸が俺になかったのかもしれない。
トリの機嫌が悪いことはわかるけど、どうやったら機嫌を直してやれるのかが俺にはまだわからない。 謝る?何を? 優が来ちゃってごめん、というのも何かおかしい気がする。 それに、じゃあ追い返せと言われたらどうしよう。 いや、トリはそんなこと言わないだろうけど。 (何がイヤかって、こういうこと考えちゃう自分が一番イヤだ) 「千秋?」 訝しげな顔で俺たちを見ていた優に、何でもないと慌てて手を振る。 別に優は何も悪くない。 俺が昨日一人でつまらないというようなことをぽろっと言ってしまったから、優はわざわざ来てくれたのだ。 かといってトリが悪いわけでもない。 二人きりの旅行だったはずなのに、俺と優がはしゃいでいたら苛々するのはわかる。 (なのに、二人の間で板挟みにされてる被害者みたいな顔してる自分にすげームカつく) 鈍感だとか、優柔不断だとか、そういう性格で自分が困った目に合うことはある。 それはまあ自業自得なんだけど、自分のこの性格のせいでトリや優を傷つけてるとしたら、自己嫌悪から立ち直れない。 他の人ならもっとうまく立ち回れるのだろうか? 一旦そんなことを考えてしまうと、さっきまでのはしゃいだ気分はどこへやら、だ。 落ち込む気持ちを悟られないように優の話に相槌を打ちながら、トリと距離が離れないようにぎくしゃくと美術館を巡った。 「千秋、お前そんな蕎麦一杯だけで大丈夫なの?」 「んー、何かあんまりお腹すいてなくて」 「嘘つけ、今朝ろくに食ってないだろ。これ以上痩せるつもりか」 誰のせいだか、と優が呟き、トリがそれを睨みつけたところで俺の食欲はさらに半減した。 確かにお腹はすいてるような気がするけど、食べ物がうまく喉を通らない。 せっかく評判のお店で日当たりも景色もいい席に案内してもらったのに、これじゃあんまりだ。 四人掛けのテーブルで、トリが向かいに、優が隣に座っている。 「なんかこうやって三人で飯食うのも久しぶりだなっ!」 「まあね」 「……そうだな」 頑張って空元気を出してみたけど、二人から返ってきたのは至極冷静な同意だけだった。 雰囲気を穏やかにするのはあきらめて、二人の様子を観察しながらおとなしく蕎麦をすすることにした。 もともとトリと優は口喧嘩が多かった。 それでも友達だと思ってたし、一時期は勘違いでだけど、お互いに好きなのかも…なんて思っていたこともあるくらいだ。 二人とも性格や好みは正反対だけど、マメでしっかりものなところは似ていると思う。 俺と違って料理もできるし女の子にモテるし。 むしろ二人とも、ずぼらな性格の俺とよく付き合ってくれているものだと感心したりしていた。 だけど気が合う合わないは性格だけで割り切れる問題じゃないので、トリも優もなんとなく反発し合ってるんだろうなあ程度に考えていた。
『友達だと思ったことなんて一回もないね』 優に告白された時、この言葉が一番堪えた。 優の言うような仲良しのふりに気付かなかった自分の呑気さにも呆れたし、俺が今まで当たり前だと思っていた友達三人組などどこにも存在しなかったのだと思い知らされた。 友達だと思っていたのは俺だけ? こんなに長い間いっしょに過ごしてきたのに? 優は厳しいことも言うけれど優しい奴なので、あんなことがなければこのことを俺に言うつもりはなかったと思う。 それをぶちまけさせた俺にたぶん非があるのだろう。 キスされたことよりも押し倒されたことよりもよっぽどショックだった。 トリが嫌いだというのは俺への気持ちの裏返しだということは頭では理解できるけれど、心が信じることを拒む。 (トリはどう思ってるのかすごく聞きたい) トリの言い分から察するに、優の気持ちはずっと前から知っていたようだ。 だから自分自身が優にどう思われてるのかも気付いていたはずだ。 (トリもやっぱり優のこと、嫌いなのかな) はっきり言葉にしてしまうと落ち込みそうだ。 確かに優のことをあんな奴呼ばわりしていたけど、はっきり嫌いだとトリの口から聞いたことはない。 もちろん俺に気を遣っていたのだと思うけれど、トリみたいな奴が誰かをそこまで嫌いになることがあるという事実自体がショックだ。 あの日以来、トリの前で優の話題を出すのがなんとなく憚られて口にしてはいないけど、いつまでも誤魔化せる問題じゃないこともわかってる。 三人で仲良くしたいと思ってるのは俺だけなんだから、俺がなんとかしなくちゃいけないのだ。 二人とも手放したくないというのは全部俺のわがままだ。 もちろん二人がいないと仕事にならないという情けない現実もあるし、何より好きの種類は違うけど、俺は二人のことが好きだから。 「千秋、俺の頼んだの半分食べない?」 「ありがと、大丈夫」 箸が止まっていた俺を気遣って優が声をかけてくれる。 優はトリの方を見て何か言いたそうにしていたけど、そのまま口をつぐんだ。 トリもそれに気付いたみたいだけど、何も言わなかった。 (口喧嘩は多かったけど、今の状態より前の方がいい) トリと優はよく些細なことで言い争いをしていたけど、今みたいな感じじゃなかった。 やっぱりあんなことがあったら、今までみたいに軽々しく言い合いはできないんだろう。 トリも優も言いたいことを我慢しているような顔をしている。 そりゃあ俺だってトリと付き合ってることを優に知られているのは気まずいと思ってるけど、敢えてその話題に触れないようにされるのもなんだかムズムズしてしまう。 かといって、自分から優に何を考えてるのか尋ねることもできない。 前みたいな関係に戻りたいのが無茶な願いだということをつくづく実感する。
昼飯の店から次の目的地へはそう遠くなかったため、腹ごなしに歩いていくかということになった。 午後の太陽はきつく、もう少しちゃんと食べておけばよかったかと今更ながら後悔した。 もともと家に閉じこもりがちな生活をしているので、この程度の距離でも体が音を上げる。 「吉野、平気か?なんだったらタクシー捕まえるが…」 「平気、平気。運動不足がたたってんのかもな」 トリも優も俺と同じでデスクワークがメインのはずなのに、この体力の差は何なんだろうと思う。 たまの休みも一日家でごろごろしてるだけだから、体力つかないのも当たり前かもしれないけど。 トリはあれで打ち合せとか原稿受け取りとか印刷所との折衝で走り回ってるし、優もわりとアクティブに動き回る派だから、完全なるインドアはやっぱり俺だけかもしれない。 「千秋?」 「おい、吉野?」 心配そうに俺の方を振り返る二人を見て、ふいに足が動かなくなった。 俺が何かしなくちゃいけないのはわかってる。 二人を手放したくないのなら、相応の努力をするべきだ。 だけど二人に甘えていた期間が長過ぎて、どうすればいいのかがわからない。
「俺って本当に馬鹿だよなー…」 自嘲気味にそう呟くと、午後の日差しが直接瞳孔に注ぎ込まれたかのように視界が真っ白になった。 頭の中にトリと優の声が遠くに聞こえたけれど、うまく返事ができないまま、気付くと俺は旅館の布団に寝かされていた。 ⇒後編へ |