「デザート・ロード」の続きになってます。

 

「市場にて」

 

 

野分が風邪をひいて寝込んでしまった。


パンダたちの世話の仕方はもうだいぶ教わっていたので、数日間は野分の看病をしながらパンダの世話を一人でしていた。
あいつらも俺に慣れてくれて、そっちは何とかやっている。
しかし心配になるのは、もし野分が未だに一人で生活していたらどうなっていたんだろう、ということだ。
今回はただの風邪で、しばらく寝ていれば治るだろう。
だけどもっとひどい病気になったらどうする?
これまで病気をしたことがなかったと言っていたけれど、万が一のことを思うと俺は寒気がした。
確かにパンダたちは賢くて優しい生き物だけど、野分の看病まではできないだろう。
もちろん俺だってそんなたいそうなことはしてやれないけど、寝床に付添って世話をしてやるくらいはできる。
眠っている野分が無意識だろうが俺の手を握ってきた。
俺はそれを軽く握り返す。
野分の毛布を掛け直してやりながら、こうして傍にいてやれる幸運にそっと感謝した。

「今日は市場には俺が行くから。」

体調も回復してきてやっと起き出した野分に、俺はそう言い渡した。
さすがに何日もテントに引きこもっていては俺たちも生活できなくなってしまう。
だけど今の野分の体調では、あの人込みの中一日歩き回るのは無謀というものだろう。
きっと体力を消耗してしまう。
体調が万全な時だって、あの場所にいくと疲れ切ってしまうくらいだ。
「でも…、ヒロさん一人で大丈夫ですか?」
「ばーか。もう何回も行ってる場所だろ?」
心配すんなって、と笑う俺に野分はまだ心配そうな目を向けてきた。
実際、市場に行くときはいつも野分に連れていってもらっていたから、不安はないというのは嘘だった。
しかも野分に出会う前は、そもそも市場にそれほど用事がなかったから尚更だ。

だけど今、俺は野分といっしょに暮らしているのだ。
俺が野分を支えてやれるようにならなければ。

大丈夫だともう一回野分に言うと、野分はわかりましたと言ってメモを書いてくれた。
市場にある店の場所と、それぞれの場所で売るものと買うものだ。
だいたいいつも通りの用事だったので、少し安心した。
「それから。」
野分は外に出ると、一頭のパンダの手綱を渡した。
「こいつを連れていってください。」
それは群れで一番大きな母パンダだった。
俺と野分が知り合うきっかけになったのは、こいつの出産だ。
縁というのは妙なもので、それから俺は野分といっしょにこの砂漠で暮らすようになってしまった。
そのおかげか、こいつが一番最初に俺に懐いてくれた。
頼りになる母パンダだ。
「これが一番人混みに慣れてますから。」
その背を撫でながら、野分が俺に言った。
「わかった。こいつがついててくれるんなら平気だな。」
そう言って俺も首筋を撫でてやると、気持ち良さそうに俺に擦り寄ってきた。

太陽の光の下で見る野分の顔はまだ少し元気がないようで、思わずその頬に手をやると、逆にその手を取られて額に口づけられた。

「…!」
「いってらっしゃい。」
「…行ってくる。」

照れ隠しにそっぽを向いたけれど、羽織ったローブ越しに野分の笑顔が見えるようで鼻のあたりがムズムズした。
勢いをつけてパンダの背にまたがる。
風は追い風だ。
テントの前に立つ野分に軽く手を振ると、一人砂漠の道を進んだ。

 

 

(やっぱり野分連れて来なくてよかったな。)

市場に着くと、まずそう思った。
何度も来ているとはいえ、いつもは野分の後ろに乗せてもらってパンダに揺られていたのだ。
だから普段は自然と目に入るのは野分の広い背中であり、人の群れも喧騒も野分に遮られていたのだと知った。
一人パンダの背にまたがり、一段高い目線で市場の中心を進む。
人の多さもその騒々しさも俺を圧倒したけれど、何より俺に向けられる好奇の目だ。
パンダのいる暮らしに慣れてしまったため忘れていたが、こいつは珍しい生き物なのだ。
初めて野分を見た日も、俺はパンダ珍しさに野分のあとをつけたことを思い出した。
(俺もちょっと前まではあの中の一人だったんだよな。)
サバクパンダとはそれほどに珍しい生き物なのか。
パンダ飼いとはどういった人間なのか。
あれこれと憶測を表情に浮かべた人々が、俺とパンダに視線を投げ掛ける。
たぶん二人で市場へ行っていた時、野分は彼らの好奇の目からも俺を守っていてくれたんだと思う。
そんなことに今更気付き、俺はずいぶんと野分といっしょにいたんだということを改めて感じた。

「たまには一人で来るのも悪くないな。なあ?」
背中の上からパンダに呼び掛けると、かすかにうなずいた気がした。


野分に渡されたメモを取出し、とりあえずの行き先を考えようとしたところ、パンダが先に動きだした。
「おい、ちょっと待てって…!」
声を掛けても歩みを止めないパンダにいきなり言うことを聞かなくなったかと焦っていると、最初の目的地に着いてしまった。
「おまえ、道覚えてるのか?」
何度も来る場所なのでパンダの方が道を覚えてしまっているらしかった。
だから野分もこいつを連れていけと言ったのだろう。
パンダの方を見ると、向こうも首を傾げる。
少し心強くなった俺は、手綱を取り次の目的地へと向かった。


「今日は野分は?」
馴染みの店の主人に尋ねられた。
「ちょっと体調がよくなくて。」
野分はいないけれど、いつも俺も野分と顔を見せているので、別段訝しがられはしない。
ただ、珍しいことだと言われた。
品物を受け取ると、店の主人は言った。
「野分もいい家族ができてよかったな。」
「……ありがとうございます。」
何と返したらいいかわからず、ぎこちなくお礼を言う。

(家族、か…。)


一通り用事を済ませて、市場の端の細い道を歩きながら俺は考えていた。
俺は野分の何になりたいんだろう、と。
野分のテントに転がり込んだのはパンダ飼いの暮らしに興味があったからだけじゃなく、野分自身にひかれたからだ。
いつ自分が恋に落ちたかなんて覚えていない。
逆に野分は俺のことを好きだと言ってくれるけれど、いつから俺のことを好きだったのかは知らない。
ただ野分の家を訪れて二人でパンダを眺めているとき、お互い同じようなことを考えていたんじゃないかと思う。

このままずっとこいつといっしょにいたい。

結局それを言葉にしてくれたのは野分の方で、俺はそれに同意する形でいっしょに暮らし始めた。
本当は俺の方から言うべきだったのかもしれない。
だけど野分は底無しに優しく、そんな俺を迎え入れてくれた。

初めて野分と砂漠の夜を過ごした時、自然に俺たちは一つの毛布に包まって抱き合った。
差し伸べられる野分の手を受け入れてしまえばもう後戻りはできないという不安はあったけれど、それを拒むには俺は野分に惹かれ過ぎていた。

抗いがたい太陽と砂の匂い。

野分に強く抱き締められ、その乾いた唇でまさぐられる度に、俺は幸福と快感に泣いた。
裸の腕で鼻水をぬぐいながら野分が好きだと告げると、感じ入った声で嬉しげな返事が聞こえた。
『…ありがとうございます、ヒロさん。』
その声はますます俺の身体を熱くした。


あの日以来、砂漠の夜を寒いと思ったことは一度もない。

 


 


用事を全て済ませたのですぐにでも帰ればよかったのだが、俺は悩んでいた。
(野分に何か買っていってやりたい。)
いつも野分と市場に来るときは必要なものしか買わないし、別に俺もそれでいいと思っている。
だけど今日は、野分が元気になるような、何か珍しいものを土産に買っていきたいと思ったのだ。
とは言うものの、何もいい案が浮かばず途方に暮れていたその時。


「弘樹じゃないか。」


「……秋彦!!」
幼なじみの秋彦だった。
見れば毛並みのいい黒光りした馬に乗っている。
鞍に括り付けた荷物の数々は買い物帰りといったところか。

「その姿…。噂は本当だったというわけか。」
「は?噂?」
感心したように俺の姿を眺める秋彦をにらみつける。
「いや、最近弘樹の姿を見ないものだからな。パンダにさらわれたとかパンダ飼いの嫁になったとか噂が少々…。」
それを聞いて俺はあきれた。
野分とパンダといっしょにいるところを誰かに目撃されたのかもしれない。
…まあ、後者の噂はあながち外れてはいないけれど。
だけどこんな形で噂になっているとは知らなかった。
砂漠の家はすこし世間から遠過ぎるようだ。

と、そこで秋彦の荷物の一つが妙にひんやりとしているのに気付いた。
「秋彦、それは?」
「ああ、これか。」
秋彦はその革製の袋をあけて見せてくれると、中にはぎっしり氷がつまっていた。
光を受けて氷はきらきら反射している。
「隣町の氷室から採取した氷らしい。食用美味な高級氷だと言っていたので、同居人に食べさせてやろうと思って買い占めてきた。」
「おまえは……。」
幼なじみの凡人離れした金銭感覚に頭を抱えたが、ふとひらめいた。
この氷、野分に食べさせてやれないだろうか。
まず氷を食べる習慣なんてないし、何より秋彦が目をつけるほどの品だ。
熱で火照った体にも気持ち良いかもしれない。

「秋彦、その氷俺にも譲ってくれないか。」
「いいぞ。半分くらい持ってけ。」

あんまり衝動買いしたのがばれると同居人に怒られるからな、と秋彦は楽しそうに笑った。

秋彦に礼を言って分かれると、パンダの背中に涼しげな袋を括り付けた。
パンダは少しびっくりしたようだったけれど、おとなしく俺と荷物を運んでくれた。

 


 


用事も済ませ、野分への土産も手に入れて砂漠の家へと帰ると、野分はテントの外で出迎えてくれた。
「そろそろヒロさんが帰る頃かなって。」
そんなことを言う野分を見ると、腕に抱えた赤ちゃんパンダが手足をじたばたさせている。
今日俺を乗せてくれていた母パンダの赤ちゃんだ。
きっとこいつが母親が帰ってくると思って騒ぎだしたのだろう。
「気付いたのはおまえじゃなくてこいつだろ。」
赤ちゃんパンダの頬を突いてやると、野分は苦笑した。


「そうだ野分、ちょっと目つぶれ。」
「えっ?」
戸惑いながらも野分は言われた通りに目をつぶる。
「じゃあ次は口あけろ。」
「…?」
おそるおそる野分が口をあけると、その中に氷を放り込んでやった。

「わっ!」

野分の驚いた様子に満足してカラカラ笑う。
「どうしたんですか、これ?」
「お前にと思って。うまいか?」
「…はい、すごく!!」
野分は嬉しそうに氷を噛み砕いていた。
まだまだたくさんあるからと言って袋を広げて見せてやると、野分は感嘆の声をあげ、パンダたちはわらわらと寄ってきた。
手に入れた経緯は割愛させてもらうけど、野分が喜んでくれてよかった。
「待ってろ。砕いて砂糖かけてやるから。塩の方がいいか?」

「甘いほうがいいです。」

そう言うなり野分は俺の顎をくいとつかむと、軽く口をあけて唇をついばんできた。
「のわ…、ん……。」
いつもとは違う冷たい口中に背筋が震えた。

「風邪うつるだろ…。」
誰も見ていないとは言え白昼堂々のキスにうろたえていると、野分はすまなさそうに言った。
「ごめんなさい、たぶん風邪はもう治ったと思うので…。許してください。」
ずっとヒロさんに触れなくて耐えられなかったんです、と言う野分のあまりな表情に俺は思わず吹き出す。
「そんなしょぼくれた顔してんじゃねーよ!」

その後二人で並んで氷をかいて食べた。
ちょっと勿体ないとも思ったけれど、せっかくの贅沢だと氷の塊を仔パンダたちのおもちゃにしてやった。
氷を転がして遊ぶパンダたちを眺めながら野分がつぶやく。

「こいつらが大きくなる頃も、ヒロさんはここにいてくれますか?」

「……心配しなくても俺が全部責任持って育ててやるよ。」


俺は野分の何になりたいのか?
それはまだわからない。

だけど俺は野分の嬉しそうな顔が見たくて、だからずっとここにいる。

 

 

 

 

 

 

END

 

 

 

 

 

2009/08/20