「デザート・ロード」

 

 

ざ、と砂を踏みしめ振り返って野分を見た。
「街が見えてきましたね。」
砂漠の熱い風に目を細めながら野分が言った。
黒い髪、漆黒の目を持つ野分はローブまでも黒を頭からまとっている。
その黒い布の奥で自分を見つめる視線に気付いた俺は、
顔が赤くなるのを悟られないように自分のローブを巻き直した。
そしてそのままパンダにまたがる。
その黒白の背に揺られながら俺たちは街を目指した。



俺と野分が出会ったのは何年も前になる。

たまたまパンダの行商のために街にやって来ていた野分を見かけたのが最初だ。
大柄な生き物に乗って市場を歩くその姿は自然と人の目を引いた。
話には聞いていたが、実際にパンダ飼いを目の当たりにするのは初めてだったので、
俺は無遠慮にもその様子をじろじろと眺めていたものだ。
そのうちにあいつが引き連れたパンダたちのために水場に移動したので、こっそりあとをつけてしまった。
せっかく本物のパンダ飼いを見ることができたのだ。
そのまま見送ってしまうのは勿体ないような気がした。

しかし野分は気付いていたようで、俺を見て手招きをした。
「これから赤ちゃんが生まれそうなんですが、手伝っていただけませんか。」
別にこちらを警戒する様子もなく、野分は声を掛けてきたのだった。
まさかそんなことになろうとは思っていなかったが、これも縁というものだろう。
覚悟を決め腕まくりをして出ていくと、群れで一番大きなパンダが急に苦しみだした。
野分は落ち着いており、あれこれと水や布の用意を俺に頼んだ。
俺たちは全身ベトベトになりながら、パンダの赤ん坊を引っ張りだした。
生まれたばかりのパンダの赤ん坊は、どの部分が白で黒なのか全くわからなかった。

「パンダのお産って初めて見ましたか。」
「いや、パンダ自体見るのがほぼ初めてだな。」
俺と野分も水場で服と体を洗いながら、少しずつお互いの話をした。
厚い布を取り去った野分の体は眩しいほどたくましく、これが砂漠で生活をする人間の体か、と俺は妙に感心する。
俺も下帯一枚になり、じゃばじゃばと全身を洗った。
焼けつく日差しに弾かれる水の感触が心地いい。
陸では大きなパンダが我が子の体を一生懸命なめていた。

「ほんとにパンダ飼いっているのな。」
「ええ、でもだいぶその人口は減ってますけどね。」
野分は幼い頃、パンダ飼いの一族に育てられたのだという。
炎天下の砂漠にあって力強く歩を進めるサバクパンダはこの地方で重宝されているが、
彼らを育てている人間たちについては未だ知られていないことが多かった。
今は野分は育った村から離れ、自分のパンダたちを飼いながら一人で生活をしているそうだ。
そして時々パンダの毛やミルク、あるいはパンダ自身を市場で売るために街に出てくるらしい。
「パンダの毛、刈るのか?」
「はい。見たいですか?」
「うーん、ちょっと見たい気がする…。」


服が乾くと、俺たちは再び会う約束をした。


「ヒロさん!本当に来てくれて嬉しいです。」
待ち合わせ場所にしていた街はずれの水場に行くと、パンダに乗った野分が嬉しそうに手を振った。
その顔を見て、こっちまでじわりと嬉しくなるのがわかる。
自分の後ろに乗るよう言われてパンダにまたがった。
地平線を望みながら俺たちは進む。
野分の腰に手を回すと、太陽と砂のにおいがした。

どうしよう。
俺はこのにおいが好きかもしれない。

そんな心の揺れに戸惑っていると、野分の生活しているテントが見えてきた。
テントの傍ではパンダたちが群れている。
「どうぞ。何もない家ですが。」
生活用品の他にほとんど物の置いていない部屋は、野分らしかった。
「誰かをこうして家に呼ぶのは初めてです。」
「ずっと一人じゃ寂しくならないのか。」
「一人は全然苦にはなりません。でもたまに誰かといっしょにいられたら楽しいかなって思ったりして。」
だからヒロさんが来てくれてすごく嬉しいです、と野分は俺を見つめた。
「…別に、パンダの毛刈りが見たかっただけだし。」
そう言って目を伏せて出されたお茶をすする俺を、野分はパンダたちのところまで案内してくれた。
この家には離れがたい何かがある。

大きなバリカンで野分がざくざくと毛を刈っていく。
黒と白の毛が交互に落ちていき、不思議な光景だ。
「毛並みのいいパンダの毛を使うと、すごく暖かくて丈夫な絨毯ができるんですよ。」
すっかり坊主にされてしまったパンダがぶるりと体を震わせた。
俺は落ちた毛を手にとり眺めてみる。
「これがなあ…。」
だけど毛を刈ってしまったらパンダのアイデンティティーである白黒模様がわからなくなってしまうだろう。
それはパンダとして認められるのか。
「ヒロさんは可愛いです。」
口を尖らせてブツブツ言う俺を見て、野分は吹き出しながらそんなことを言った。

「大丈夫ですよ。しばらくすればまた生え揃います。」


このパンダたちがまたしっかりと白黒に戻る頃には、俺は野分のテントで暮らし始めていた。



俺と野分が出会った時に生まれた仔パンダが育ったので、俺たちは街に売りに来ていた。
野分と暮らし始めてから、俺がこの手で世話をしてきた奴だ。
「寂しい、ですか?」
俺の心を察するかのように野分が俺の顔を覗き込んだ。
「平気だ。」
寂しくないと言ったら嘘になるが、売られたからといって食われちまうわけじゃない。
ただ、あの小さかったパンダが立派なおとなのパンダに育つほどの時間を、
俺は野分と過ごしてきたんだなあ、ということを考えていた。
願わくばいい人に買われるといい。
まだ野分と出会う前、パンダの本を読んではいつか本物を見たいと思っていた頃には自分がこんな生活をするようになるとは想像だにしていなかった。
野分と初めて言葉を交わしたときのことを思い出すと、今でも目眩がしそうだ。


俺たちの育てたパンダは大層な高値で売られていった。


「せっかくお金が入ったので今夜は少しいい宿に泊まりましょう。」
必要な買い物と飯を済ませ、そろそろ日が暮れようかという頃、野分が言った。
いつもならば街に来ても安宿に泊まり、喧騒に疲れた体を横たえて死んだように眠るだけだった。

乗ってきたパンダを宿の外につなぐと、部屋に入り荷物を下ろす。
窓の外はすっかり宵闇だ。
部屋にベッドは二つあったが、俺が右側のベッドを選ぶと野分も潜り込んできた。
野分と生活し始めてから幾度となく肌を重ねたが、いつもはテントで砂のにおいにまみれた毛布に包まって抱き合っていたので、
今日みたいに清潔な真っ白いシーツの上で野分に抱かれるのはとても気恥ずかしい感じがした。


『俺はこれまでもこれからも一人で生きていくものだと思っていました。』
『でも、ヒロさんに会って初めて誰かといっしょに生きていきたいと思いました。』

野分にそう告げられたのが、ずいぶんと昔のような気がする。
興味本位で野分の生活に介入しているつもりはなかったけれど、俺と暮らしては負担にならないかと訊ねた。
しかし本心はとても嬉しかった。

『ヒロさんと暮らせるのなら、それに勝る幸せはないです。』

その言葉に甘えるようにして俺は野分のテントに転がり込んだ。
野分に教えられながらパンダの世話の仕方を覚え、
夜は砂漠の冷え込みから身を守るために二人で何枚も毛布を被って体を寄せあって眠った。
太陽と砂の香りに満ちた野分に抱き締められて眠るのは、人生で最も幸福な睡眠だったと思う。


野分が俺の身体を持ち上げるように抱きかかえる。
俺は野分の髪に手を入れ、その首筋に顔を埋めて野分のにおいを吸い込んだ。
「ヒロさん…。」
「…ん…ッ。」
白いシーツのせいで野分の体臭がいつもより濃く感じられ、高揚で気を失ってしまうかと思った。

俺の人生から野分を切り離すことは、もはやできないだろう。
霞む頭の隅で強くそう感じた。



「野分、欲しいものは買えたし明日は家に戻ろう。」
「そうですね。」
野分の腕に頭を預け、目を閉じる。
早く砂と熱の世界へ帰りたい。
そうでなければ野分のにおいにむせかえって死んでしまいそうだ。


朝、まだ涼しいうちに宿を発った。
パンダたちを引き連れ、野分の背につかまり砂漠を目指す。

この道はもうすでに行く道ではない。
帰る道だ。
俺と野分の家へ帰る道。

「帰ったら水浴びに出掛けましょうか。」
「…ああ、そうだな。」

 

延々と続く砂の道は、俺と野分を瞬く間に砂漠の世界へと溶かし込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

END

 

 

 

 

2009/04/11