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「ばら薫る花の谷間に」




朝比奈はいわゆる「いい子」だ。


真面目で礼儀正しく、親切で勤勉。ただし俺に対してはおそろしく慇懃無礼な暴言を吐く。
従順な部下の顔をしながらバカ取締役だのアホ専務だの言いたい放題だ。
昔はかわいかったよなあと思いつつ、俺はほのかな罪悪感を覚える。
俺があいつの性格をねじ曲げたんじゃないのか、という話だ。
子供の頃の朝比奈は気弱で素直で、少なくとも皮肉なんて言う奴ではなかった。
最初の頃は俺がどんな無茶を言っても、はい、と頷くだけだった。
それが俺のお世話係として頭角をあらわしてきたことで、昔の面影が嘘のように説教と口答えをするようになり、完全に言いたい放題だ。

勿論朝比奈に恩を着せたいわけじゃない。
朝比奈の親に色々あったのは朝比奈自身の責任じゃないし、俺だって俺自身が何かしたわけじゃなくて、単なる恩人の息子だ。
親父に対して恩義を感じても、別に俺に対して感じる必要はない。

だから俺が、朝比奈のくせに、とか、部下の分際で、みたいなことを言っても、それは売り言葉に買い言葉というやつだ。
そんなことを言える権限はないと思っている。


朝比奈に、俺の部下に甘んじている理由は実はあまりない。
例えば朝比奈が丸川以外の会社に入っていれば、俺との間に上下関係はないに等しい。
(そもそも俺が入社した頃は朝比奈の方が先輩だったのだ)
主従というより主従ごっこだ。
要するに俺がこの関係を朝比奈に強いているわけで。
封建社会から脱却して久しいこの現代日本において、年端もいかない子供に主従関係を強いるというのは人格形成においてかなり害悪だったのではないだろうか。
(害悪、は言い過ぎかもしれんが)
とりあえず朝比奈は普通に育ったとは言い難いところがある。
しかも俺のせいで、だ。
昔の朝比奈と今の朝比奈を思い浮べながら、俺はそんなことを考えるのだった。








例えば出版社のパーティーともなれば、右へ接待、左へ接待で、朝比奈の姿など目に入らない。
こういう場ではあまり秘書として顔を出したくないらしく、なんとなくいつも俺の後ろに控えている。
俺はもう朝比奈にちょっかいを出している暇はないので、正直こういう時に朝比奈が何をやっていてもわからない。
しかし何をやっていても、とは言っても、朝比奈が何かやらかすようなことは考えにくいので、端的に言えば放置だ。
用事がある時だけちゃんと近くにいてくれればそれでいい。
朝比奈がまだ編集の職に就いていた頃は、ここぞとばかりに異性に囲まれていたが、俺の秘書になってからはそういうこともなくなった。
パーティが終わればどこからともなく姿をあらわし、どうせ俺といっしょに帰宅の途に着くことになるのだ。
それが俺と朝比奈の普通で、今日も当然そうなることと思っていた。


ところが今日はパーティが終わっても、朝比奈は姿を消したまま俺の前にはあらわれなかった。






「おい、朝比奈」
いつものように周囲を見ずに呼び掛ける。
近くに控えているかは確認していないが、基本的に呼べば朝比奈は必ず側で答えてくれた。
「……朝比奈?」
返事がなかったのでもう一度呼び掛けたが、やはり反応はない。
そこで初めてきょろきょろと辺りを見渡したのだが、朝比奈はどこにもいなかった。
(親父にでも捕まってるのかね)
俺を差し置いて朝比奈に用事を言い付ける人間はそれほどいないはずだ。
招待客を滞りなく送り出しながら朝比奈を待ったが、姿をあらわさなかった。
朝比奈は俺のものではあるが、俺の保護者ではないので先に帰るとか何とかメールをしておけばいいだけの話かもしれない。
だけどそれが妙に寂しいことのように思えて、人のまばらになった会場で一人ぼーっと立っていた。


「専務、どうされたんですか」
不審につっ立っている俺を見かねたのか、営業の奴が声をかけてきた。
「いや、うちの秘書が見当たんねえなーと思って」
やっぱりメール一本入れて先に帰るか、と思いながらそう答えると、そいつはハッとした顔になった。
「もしかしてまだ専務の耳には……?」
「おい、どういう意味だそりゃ」
俺が尋ね返すと、気まずそうな顔をされた。
おそらく俺に告げていいものか迷っているのだろう。
ここで下手に口をつぐんでもどうせ社内のことは俺の耳に入るからと言って諭すと、ようやく口を割った。




「朝比奈が謹慎処分……!?」
告げられた言葉は予想だにしない内容だった。
俺に対して暴言は吐いても、対外的には品行方正で通る男だ。
真面目で筋の通らないことは嫌いな奴だと思う。
そんな朝比奈が一体何をしたというのだ。

「あ、いえ、さっきのことなので処分がどうなるかはまだわからないそうなのですが……」
自分で直接見聞きしたわけではないので、と前置きをしてそいつは話し始めた。






(続く)

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