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胸が痛い。

誰かを好きになるのは初めてじゃないはずだった。
ときめきという感情もちゃんと知っているし、人並みの恋愛感情もあると思っていた。

だけど、こんなのは知らない。
自分で描いてるくせして、こんな少女漫画みたいな胸の痛みが本当にあるとは思わなかった。
これは初恋じゃないはずなのに、何もかもが初めてで戸惑ってしまう。
『初めての気持ち』という使い古された単語が、リアルな実感をともなって俺の頭を行き来していた。






トリと付き合い始めてから会う時間が増えたとは言い難いが、その密度は濃くなった気がする。
以前だったらトリが差し入れを持ってきてくれた時は、俺が差し入れを食べている間にトリがたまった家事を片付けてくれて、原稿の打ち合わせをしておしまいだった。
だけど今は俺が差し入れを食べている間、トリは向かいに座って俺の話を聞いてくれる。
俺が食べ終わって話したいことを話しきると、トリは家事を始める。
そうすると時間が遅くなるので、トリがうちに泊まっていく。
俺が泊まるように勧めたり、トリから言い出したり。
今日もそんな感じで、俺がもう少しだけと原稿を進めている間、トリがシャワーを浴びていた。
「吉野、ビールもらったぞ」
「どーぞどーぞ」
ぷしゅ、とビールの缶を開けながらトリが俺のところへ来た。
うちにあるビールは俺よりもむしろトリによる消費量の方が多いような気がする。


ビールを片手に、トリは机の上を覗き込んで俺の作業の進行状況を確認した。
「まだかかりそうだな」
「うん」
今日中にペン入れまで終わらせたいと俺がさっき言っていたので、もう少しかかると判断したんだろう。
俺にそう声をかけると、トリはソファーでビールを飲み始めた。
「……先寝てろよ」
「別に気にしなくていい」
「いいって。トリも明日早いんだろ?」
俺がそこまで言うと、渋々といった風に寝室に向かった。
「おやすみ。無理するなよ、とはスケジュール的に言えないが、頑張ってくれ」
「うん、おやすみ」
ぱたん、と寝室のドアが閉まり、俺は胸を撫で下ろした。と同時に、ぎゅっと胸が痛くなる感覚に襲われる。


(……まただ)
以前だったら、起きて待っていようとするトリのことなど気に掛けなかったんじゃないかと思う。
それからトリもためらわずに俺のベッドへ向かったけど、以前のトリならソファーで寝ていたはずだ。
付き合う前には何でもなかったことが一つ一つ気になって、考えて、色んなことがわかる。
トリが起きて待っていてくれようとしていることに、俺が気付けるようになったこと。
それを当たり前のことじゃなくてトリの優しさだとわかるようになったこと。
トリが俺のベッドで寝ていていいんだと思ってくれるようになったこと。
全部を総合して考えると、
(ああ、俺たち付き合ってるんだな)
とか、
(恋人なんだな)
とか、そういう実感になる。
そんな時妙に気恥ずかしくなり、さらに胸が痛くなる。


とくにトリの優しさに気付いた時だと思う。

今までは何とも思わずに当然の顔で受け取っていた優しさを意識した時、嬉しくて切ないような不思議な気分になる。
(当たり前、なんて幻想だった)
トリの性格は優しいと思うけど、俺の世話をやいてくれるのはその性格以上に特別な感情があったからに決まっている。
だけど、俺は気付こうともしなかった。
過去の自分は一体どれだけ無神経だっただろう。
だけど今は多少は気付ける。
昔よりは敏感になっていると思う。

それでついため息をつくのだけど、そのあとどうしたらいいのかがわからない。
どうやったらこの胸の痛みが消えるのかわからない。

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