漫画。 自分とは最も縁の遠い単語の一つだな、と思った。 以前の彼のように花だとかイチゴ、サクランボならばいくらか自分で良いものを見繕うことができるのだが、今回はどうしたらいいものか。 彼への思いは一旦自分で整理をつけたはずだと思っていたのだが、こうしてふとした瞬間に頭をよぎるのは彼のことだ。 そういう時に限って、偶然街中でばったりと会ったりするものだ。
「……!」 「わっ!ウサギ兄!…じゃなくて、えーと、お久しぶりです」 書店の紙袋を抱えた彼は慌てて挨拶をしてくれた。 自分のことをまだ苦手に思っているだろうに、と少し胸の苦しさを覚える。 そうして、彼の持ち物に目を遣り思い至った。 周囲に漫画に詳しい人間はあまりいないと思っていたが、 (龍一郎に相談するのはややこしくなりそうなので、ためらわれた) 彼ならば、何かヒントをもらえるかもしれない。 「つかぬことを聞くが」 「え、は、はい、何でしょうか…」 「君は漫画が好きか」 「…漫画??好きですけど」 やはり。 この好機を逃す手はない。 「それは、どのような漫画か」 そう尋ねた瞬間、彼の目はきらきらと輝き、とある漫画について一生懸命語ってくれたのだった。 「ゲテモノ料理人、ザ☆漢っていうんですけどね」 「知らないですか?いや…知ってたら逆にびっくりか…」 「カタカナでザ、ほし、漢字の漢、男と書いて漢、です!」 「いやー、俺はあれ以上の名作漫画知らないですよ!」 「ほんと、あれは料理漫画っていうかハードボイルド漫画で…」 「とにかく読むと胸がギューン!っていうかズギューン!っていうか!!」 「もうめちゃめちゃ面白くてかっこいいんですよ!!!」 …とまあ非常に熱く語ってくれたのだった。 (後半はよくわからなかったが) とりあえず彼曰く『漫画といえばザ☆漢』なのだそうな。 先日、駅で自分を助けてくれた青年への礼を考えるつもりが、思いがけず彼の好きな物を釣り上げてしまったようだ。 これから彼への贈り物はザ☆漢とやらに関連するものの方が喜んでもらえるのかもしれない。 そんなことを考えていたのを見透かしたのか、彼は念を押すようにこう言った。 「あの、もしかしてまた俺に何かくれようとしてるんだったら結構です。THE☆漢に関するグッズは手に入る限り自分で集めましたから!非売品とかも井坂さんにもらったりしたんで…」 先手で釘を刺されてしまった。 「わかった。君への贈り物はまた何か別のものを考えよう」 「そういう意味じゃねーーーーーーー!!!!!」 彼はまた喚いていたけれど、有意義な情報を手に入れられたことについて礼を述べ、別れた。 別れ際、秋彦も最近はその漫画を読んでいるから自分も読んでみてはどうだろうか、と遠慮がちに勧められた。 彼の言いたいことはよくわからなかったが、心に留めておこう、と返事をした。 「何?ザ☆漢?ウチの主力作品だけど、まっさか春彦からその名前が出るとはね〜。誰から聞いたの?チビタン?」 案の定、龍一郎は興味津々といった態で根掘り葉掘りしてきた。 見知らぬ漫画好きの青年への礼がしたいなどと言えば、またやいのやいの言ってくるだろうから、語尾を濁す。 彼から漫画のことを聞いたのは嘘ではないし、勘違いさせたままでいいだろう。 龍一郎は人が何か尋ねる前から次々と提案をしてきた。 「確かにチビタンはザ☆漢の大ファンみたいだから、ウチの販促グッズとか喜ぶんじゃねーの?」 自分で以前にそのグッズを押しつけたことをすっかり忘れているような口振りだ。 無論、その方が都合がいいのだけれど。 「今度の打ち合せの時、好きなだけ持っていけよ」 「…彼、高橋くんには余計なことを言うな」 「はいはい、わかったわかった」 このような経緯で用意したものだったのだが、それが偶然の出会いに意味を持たせることになるとは予想だにしていなかった。 助けられて、お礼をして、それで終わり。 そうなるものとばかり思っていたのに。
「漢…のフィギュア…!!」 正解かどうかひたすら心許ない贈り物だったけれど、青年の表情の輝きに安堵し、同時に目を奪われた。 (嬉しそうな顔) くす、と一瞬笑ってしまったのに気付かれただろうか? あれこれ考えているであろう青年を目的地に下ろし、別れの言葉を考えた。 「また、縁があれば」 考えた末出てきたのは、名刺と再開を期待するような台詞。 自分も相手も驚いたような顔をしていた。 その驚いた顔を見合わせたまま車のドアが閉まり、今度こそ本当に車を発進させてその場から去った。 (『また』なんてあると思っているのだろうか) 誰に対するでもない問いかけをぐるぐると繰り返しながら、バックミラーで見えもしない相手の表情をうかがう。 自分の名刺を見つめながら立ち尽くしている姿が遠く映った。 2011/03/28 |