「煙が目にしみる」

 

 

煙草を吸い始めたのは政宗のせいだった。


あの頃の荒れていた政宗の部屋のすえた匂いは未だに思い出せる。
酒のこぼれたテーブル、何日も干していないシーツ、ソラ太の生活臭、それから政宗の煙草の匂い。
ロクなものを食べないくせに、政宗はいつも煙草だけは手放さなかった。

だらしない奴は性格的に好きではなかったけれど、そんな奴を放っておけないのも俺の性分だった。
部屋の窓をあけ、掃除と洗濯をし、ついでにソラ太もきれいにしてやった。
こんな部屋にいても政宗にとっていいことなんて一つもないだろう。
お節介に立ち回る俺の様子を政宗は無表情な目をして部屋の隅で眺めていた。

「最後はこれだな」
仕上げとして政宗から煙草を取り上げようとした時だ。
この時の政宗の顔を俺は忘れることができない。
てっきり嫌だと反発されると思ったが、予想外に政宗が見せたのは不安の色だった。
「政宗……?」
「それ、返して」
ひったくった煙草の箱をどうしたらいいかわからず、一本抜き取って箱ごとまた政宗に返してしまった。
そして、口にくわえて政宗の隣に腰をおろす。
「横澤、お前吸う奴だっけ」
「いや、吸わん」
虚ろな目をしたままだったけれど、政宗はポケットからライターを取り出して俺に渡した。
そうして、俺が煙をうまく肺まで吸い込めずにむせるのを見て政宗は笑った。


それから俺は、喫煙量を減らしてやろうと政宗が煙草を吸っていると手を伸ばして一本いっしょに付き合った。
その行為自体にとくに効果があるとは思えなかったけれど、今思えば政宗が抱えていたものをこんな形で肩代わりしてやりたかったのかもしれない。
煙草だってタダじゃないんだと政宗が文句を言うので、煙草代のかわりだと言って飯を作りに通った。
政宗は食べたり食べなかったりだったが、俺はそれでよかった。
あいつが俺だけを頼っている状況が、心地良いものに思えていたのだと思う。


そんな日々を繰り返しているうちに、政宗は荒廃した生活から抜け出した。
就職も決まり、政宗は俺に言った。

ソラ太をよろしく頼む。
今まで世話になった。
これからも友人として付き合ってほしい、と。

『友人』という単語は今でも俺の胸を抉る。
政宗の面倒をみていた時に、なりゆきで何度か寝たことがある。
あいつは恋人として付き合う気はなかったようだったけれど、俺はそうなってしまってもいいと思っていた。
事実、世界中の誰よりもあいつの近くにいたのは俺なのだ。
忘れられない相手がいると言うが、そいつが政宗に何をしてやった?
ずっと政宗の側にいて、政宗を立ち直らせた俺の他に相応しい相手がいるというのだろうか。

だけど、政宗の前でそんな女々しい自分をさらけ出すことのできなかった俺は、いつか政宗が俺の気持ちに気付いてくれる時を期待して『友人』へ戻ることにした。
政宗が俺の保護下から自立し、俺のもとに残ったのはソラ太といつのまにか身についてしまった喫煙習慣だけだった。




「禁煙しないのか?」
いつものように一人寒空の下で煙草を吸っていると、隣に桐嶋さんがいた。
「余計なお世話だ」
「ふーん」
薄い唇に笑みを浮かべたまま意味深な相槌をうたれると多少カンにさわる。
どういう意味だと問い返すと、桐嶋さんは言った。

「なんか、まずそうに吸ってるように見えてな」
「………」




以前この人に、俺と政宗の関係は依存だと言われたことがある。
最近は煙草を吸うたびに、その言葉がちらつくようになった。
(依存、か……)
政宗の面倒をみていた頃は、政宗が俺に依存しているのだと信じて疑わなかった。
何をするにも俺がいなければいけなかったし、アドレス帳を俺の番号以外全て消した時には、何があっても俺はこいつを見捨てたりしないと決意したものだ。

それが、政宗が荒れた生活から立ち直り俺の手を必要としなくなった頃から変わったのだと思う。
『政宗に頼られること』が俺の心の拠り所になっていた。
普段から他人の力を借りようとしない政宗が、俺にだけは助けを求めてきた。
政宗を支えることが俺のアイデンティティーだった。

確かに政宗の苦しみを取り除いて立ち直らせてやりたいとは思っていた。
それは嘘じゃない。
だけど結局のところ、政宗の俺に対する依存心がそのまま俺に転写されただけだったのかもしれない。
まるで、もらい煙草をしているうちに政宗の弱いところがうつってしまったようだ。

縋りついてでも政宗を手放したくなかったのに、女々しい自分を直視できずに友人から一歩踏み込むのを恐れた。
お前のことが好きだと正直に伝えていれば、俺たちは何か変わっていたのだろう。
今更考えてもどうしようもないことだが、ぼんやりともしもの話を考えながらゆっくりと煙を吐き出した。


「余計なこと言ったみたいだな」
「いや、気にしてない」
昔だったら怒鳴って反論していたような気がするが、今は不思議に穏やかな気持ちで桐嶋さんの言葉を聞ける。
この人の言う通り、もしかしたら俺と政宗の関係は依存と呼ばれるべきものだったのかもしれないが、それでも本当に政宗を好きだった気持ちを否定されたわけじゃない。


桐嶋さんは目ざとく俺のポケットにある煙草の箱を見つけると、それを素早く奪い取った。
それから昔の俺のように一本取り出して口にくわえた。
「あと七本、か」
残りの本数を数えながら、桐嶋さんがつぶやく。
その意図を計りかねて、怪訝な顔をして俺は黙ってライターを渡した。
「禁煙するなら、この残り俺にくれない?」
「はあ?」
「俺が代わりに吸い納めしてやるよ」
そう言って俺の返事も聞かずに自分のポケットへしまってしまった。

「横澤?」
何も言えないでいる俺を不審がって、桐嶋さんが顔を覗き込んできた。
目を合わせないようにしながら、俺は言った。
「……代わりは、困る」
「うん?」

「……今度はあんたに、俺の弱いところがうつったら困る」

桐嶋さんが色々と気を回してくれるのはありがたいが、俺のことをそんなに背負い込んでもらいたくない。
そんな意味を込めて告げると、桐嶋さんは軽く一笑した。

「ガキじゃあるまいし、そんなに簡単に他人のはしかはもらってこねーよ」

だから安心して禁煙しな、とぐしゃぐしゃと俺の頭をかきまわした。


「あ、でも口淋しくなったらいつでも俺のところにおいで」
「……うるせーよ」

まだ十分長さの残る煙草を灰皿に押しつけると、桐嶋さんは仕事へと戻っていった。

(十分大人のつもりだったんだがな)
あの人から見たら俺なんてまだまだ青臭いガキに見えるのかもしれない。


自分も煙草の火を消して桐嶋さんの残した煙を吸い込むと、目の奥が痺れるような感覚に襲われた。


 

 

END

 

 

 

2011/11/01