『げんこうはがんばります。さがさないでください。』 その日、俺は久しぶりに逃亡した。 ネーム作業というのはいくら尻を叩かれても早くなるようなものではない。 下書き・ペン入れのように机にかじりついていればいいわけではなく、律速は俺の脳一つにかかっている。 もちろんトリと相談はするけれど、俺の場合は頭の中にあるイメージを直接ネームに落とし込むので、何かしらの形でアウトプットできなければトリも助言のしようがない。 プロットの内容は決まっていても、コマ割りや効果やページ配分は実際に描いてみなくちゃわからない。 毎回焦りとひらめきがデッドヒートを繰り広げ、どんどん俺は追い詰められる。 うんうん唸って机に向かい、ソファーに寝転び、トイレに籠もり、思考回路はネガティブな方向へと突き進む。 こんなことしてて何かひらめくのかな、と。 このまま頭をひねっていても約束の時間にはトリがやってくるわけで、つまり死刑宣告を待つばかりの囚人状態というわけだ。 そう思ってしまったが最後、部屋でじっとしていられなくてあてもなく外へ飛び出すことになる。 適当に近所をうろうろして、いいアイデアが思い浮かんだらすぐ書き留めて、家に帰ってトリが来るまえに形にしておく。 最悪メモさえあれば、トリと打ち合せをしながら描いていけばいい。 明日はトリも休みのはずだから申し訳ないけど夜中まで付き合ってもらって明日の昼から下書きを超特急で進める。 それで、ギリギリ今週のデッドには間に合うはずだ。たぶん。 「よし、その作戦で!」 明らかに睡眠の足りない頭で考えた根拠のない勝利を確信した俺は、力強くうなずくと夕方の街へ繰り出した。 いつものカフェへ行き、コーヒーを一杯飲んだ。 近所の本屋へ行き、平積みにされているコミックスの新刊をチェックした。 ゲーセンでクレーンゲームをやって5回目であきらめた。 その間、時計を見ること18回。 アイデアが浮かびかけたのが2回。 書き出したメモは3行。 トリの怒った顔を思い浮べたのが………実に25回にのぼる。
結局、閉店まぎわのスーパーでアイスを一つ買うと、とっくに人気の絶えた公園に向かい、ベンチに座ってアイスをかじった。
「トリ、怒ってんだろうなー」
時刻はそろそろトリが俺の家に着いていいくらいの時間だ。 仕事帰りのサラリーマンやOLさんがぽつりぽつりと公園の脇を通りすがっていく。 普段のトリなら帰宅はもっと遅い時間だけど、今日は俺のためになるべく定時であがってくれると言っていた。 俺の置き手紙を見て、青筋を立てている光景がたいそうリアルに思い浮かぶ。 街灯に群がる虫たちが、妙な虚しさをあおった。 家を出てあれこれしてみたけどネームが進む気配は訪れず、やっぱり家で真面目に机に向かってた方がよかったかなあと後悔した。 少なくともトリの怒りは半減するだろう。 当たり前だけど、毎度トリに怒られたくてこんなギリギリ進行をしているわけじゃない。 俺だって、できればビシッとネームを上げてバシッと締切までには原稿を提出したい。 だけどよく言えば過去を引き摺らない、悪く言えば反省が身につかないこの性格。 加えて絶対に自分で納得のいかない原稿にはしないというこのプライド。 そういうものが総合されて、毎回こうなるわけである。 トリは俺の性格をよくわかってくれてるから、俺が大丈夫大丈夫と楽観している時には危機感を持てと言い、修羅場になっても原稿の手は抜きたくないという俺の意志を尊重して印刷所と交渉をしてくれる。 そんなトリに、誰が好き好んで迷惑をかけているものか。
(俺だって、怒られるのが好きなわけじゃないし) 学生の頃は学校でも家でもよく叱られた気がする。 叱られるうちが華だというようなことを言われても、そんなのは叱る大人の都合のいい言葉だと思っていた。 そして十分大人になった現在、確かに俺のことを叱ってくれるのはトリくらいのものだった。 いや、俺以外の大人はみんな怒られずとも自分の仕事をちゃんとやっているのだろう。 親や先生はそれが務めだから子供を叱るのだけど、基本的には誰かを怒ったり叱ったりするのはすごく面倒なことなのだ。 エネルギーも使うし気も遣う。 だから、いい大人が怒られて行動を改めなかったら、放っておかれておしまいだ。 無責任、非常識のレッテルを貼られるだけである。 確かに俺の漫画は売れているのかもしれない。 エメラルドの看板作品だと言われ、その自負を持って仕事もしているつもりだ。 だけど俺がいくら面白い作品を描いたって、いい加減なことばかりしていたら仕事を干されることだってあり得る。 きちんと締切通りに原稿を仕上げて、初めて『プロの漫画家の仕事』だ。 いつも俺のせいで印刷所を待たせていることも、俺の信用を下げることになるとトリによく言われる。 いい作品を描くことも大事だけど、吉川千春がきちんと信頼される人間になることも同じように大事なのだ。
要するにトリが俺を怒るのも、全部俺のため、というわけである。 「わかってるんだけどさー」 俺が怒られたくて怒られているわけじゃないのと同じように、トリだって怒りたくて怒っているわけじゃない。 それはそれはもうよくわかるのだけれど、 「あーーーーっもう!!!そんなの全部わかってるっつーの!!!」 トリの言ってることが正論過ぎて俺は逃げ出したくなるのだ。 締切を破る俺が悪い。 そんなことは一回言われれば十分過ぎるくらいわかる。 わかるけど身につかないからしょうがないだろ? いや、しょうがないで済まされないこともわかるけど、正論で諭されて改まるくらいなら苦労しないっての!! トリの言うことが全面的に正しいだけに俺のダメっぷりがじわじわとストレスになって、だから俺はこうやって耳をふさいで逃亡する。 おとなしくトリのお説教を聞いていたら自分がサイテーな人間みたいに思えて、だから俺はやればできるんだと思い込みたくて家を飛び出して一発逆転を狙い、結局トリに迷惑をかけるのだ。 この悪循環から抜け出したいのに、トリは毎回耳にタコができるくらい同じ内容のお説教をする。 「いつもいつもしつこいんだよ!バカトリ!!本当はやればできる子なんだ!たまには頭くらい撫でてみやがれバーーーーーカ!!!」 「おい、不審者」
ひぇっと妙な声をあげて振り返ると、地獄の使者のような顔をしたトリが立っていた。 「いっ、いきなり不審者呼ばわりかよ」 ボルテージの下がりきっていない俺が喧嘩腰で言うと、トリは大袈裟にため息をついた。 「夜中の公園で大声出してるのは十分不審者だ。通報されたくなかったら帰るぞ」
予想外に淡々としたトリの言葉にうまく言い返すことができずに、そのまま手を引かれるようにして俺たちは公園をあとにした。
「なんでここにいるってわかったんだよ」 「お前の行きそうな場所くらい大体わかる」 「ネーム、できてないんだけど」 「だろうな」 「どこから聞いてた?」 「『バカトリ!』くらいから」 「………怒らねーの?」 「公園で叫び出すほど追い詰められた奴には怒りたくても怒れん」
俺の部屋に来て、置き手紙を見て、それで心当たりのある場所を探しながらここに着いたのだとトリは話してくれた。 なんとなく並んで歩くのに気が引けて、トリの半歩後ろについて歩く。 もっと頭ごなしに怒鳴られるかと思っていた俺は急に恐くなって、おそるおそるトリに声をかけた。 「呆れた、よな」 「そう思うくらいなら最初から逃げるな」 「………っ」 言葉に詰まった俺に、逆にトリが尋ねてくる。 「ネームは本当に一枚もできてないのか」 「んーと、メモがちょこっとと、あと気に入らなくて捨てたやつがゴミ箱にあるかも」 「それでいい。ゼロよりはマシだろ」 俺から言い出さなくても、トリは一晩中付き合ってくれるつもりらしい。 こういうところが、本当にトリには頭が上がらない。 「なんだ?お前は怒鳴られたいのか」 神妙な顔をしている俺に気付き、トリが言った。 たぶんトリは怒鳴る気満々で俺を探しにきたのに、俺の奇行を見て拍子抜けしたのだろう。 客観的に見ても今日の俺に許してもらえるような要素はない。 「……そーかも」 もしかしたらトリに怒られたくて逃げたのかも、と言うと、大丈夫かと心配された。 確かにトリに叱られている時は劣等感で嫌になるけれど、でもトリに怒られなくなったらそれこそ本当に本当に俺の最後だ。 確実にトリに見つからない場所だったら、もっともっと遠くへ行けばいい。 そういうところまで俺は臆病だから、トリにギリギリ見つかる範囲でこうやって逃げ回る。 「直んのかね、この性格」 「他人事みたいに言うな。お前に直す気がなかったらどうしようもないだろ」 「……ごもっともです」 そうだな、とトリは振り向き、ニヤッと笑った。 「逃亡癖を直して真面目にネーム作業ができるようになったら、頭くらいいくらでも撫でてやる」 「な………ッ!さ、さっきのは言葉のアヤだッ!!」 だから頑張れ、と頭に置かれた手を俺は振り払うことができなくて、反省しているふりをして俯いた。 良薬は口に苦しというけれど、困ったことにこいつの場合、たまにとんでもなく甘い時がある。 もっと困ったことに、俺は甘いものが大好きだった。 今回の原稿も死ぬ気で頑張ろう。 通常締切に間に合う自信はあまりないけど、なるべくトリたちや印刷所を困らせないようにしよう。 そして、次こそは早めにネームにとりかかってトリに頭を撫でてもらおう。 トリがいるから俺はできる、と小さく呟いて、早足でトリを追い越すように歩き出した。
END 2011/07/23 |