「オアシスの風」

 

 

誰かを好きだと思う気持ちで心を埋めていく喜びを教えてくれたのは、ヒロさんだった。

 


砂漠の太陽が肌を焦がそうとする中、俺たちは水場の木陰で水浴びをしていた。
何キロも水分を摂らずに歩き続けることのできるサバクパンダだけれど、その分普段はたくさんの水を飲ませなければいけない。
今年生まれた仔パンダたちは水遊びが気に入ったようで、しきりにヒロさんの裾を引っ張っては急かしている。
「こら、慌てるなって」
まとわりつかれたヒロさんは呆れた顔で俺の方を振り返った。
こういう何気ない瞬間にヒロさんの顔を見つめて、俺は幸せを噛み締める。
ヒロさんが俺と砂漠で暮らし始めてから数年。
俺たちは、もうすっかり家族だった。

 

 


人は一人で生まれてくるのだから、死ぬまで一人でも何も問題はない。
両親を知らないままパンダ飼いの一族に拾われた俺は、幼い頃からそう考えていた。
パンダの飼い方を教えてくれた彼らは優しくて、感謝してもし足りないほどだけど、俺はなんとなく一人で生きていくものだと思っていた。
一族を離れることを告げた時も、驚かれはしなかった。
ただ寂しくなると言われ、少しだけ胸が締め付けられた。
俺のことを可愛がってくれた長老は、パンダたちを連れて別れの挨拶に来た俺に、こう言ってくれた。
お前にもいつか家族ができるから、と。
「そうでしょうか」
パンダ飼いの一族のみんなとは家族のように暮らしていたけど、でも俺だけの家族ではない。
自分が家庭を築く姿が思い浮べられなかったので、首を傾げたけれど、長老は笑っただけだった。

 

ヒロさんとの出会いは眩しすぎて、一生忘れることはないだろう。
パンダと俺の様子をうかがっていた彼を見た時、この人だ、と思った。
声を掛けて、お互いの話をして、次の約束をして。
その間、俺はずっと考えていた。
どうやったらヒロさんと家族になれるのかを。
ヒロさんのことを考えると胸が苦しかった。
ヒロさんが笑うと嬉しかった。
この恋がいつまでも続きますように。
そしてゆるやかに愛に変わっていきますように。
ヒロさんも俺と家族になるのを望んでくれますように。

結局、ヒロさんは魔法使いのように全ての望みを叶えてくれた。
パンダが好きなヒロさんは、俺のことも好きになってくれた。
初めてヒロさんと抱き合った時、人の肌がこんなにも自分の身体に馴染むことに感動を覚えた。
俺はもうヒロさんから離れることはできない。
口付けでそれを告げると、控えめにヒロさんの唇が応えてくれた。

 

 


歩を早めたヒロさんたちに遅れて俺が水辺に到着すると、ヒロさんは水浴びのために服を脱ごうとしているところだった。
俺の視線に気付いて、動きを止めるヒロさん。
初めて会ったときは、何も気にせず下布一枚になっていたのに。
俺と恋人になってから、すごく俺の方を気にするようになってしまった。
照れているのは一目瞭然で、ヒロさんのこういうところが本当に可愛いと思う。
(昨日は跡つけすぎちゃったしな)
ヒロさんのうなじや脇腹には俺が昨夜つけた愛撫の跡が残っていて、ヒロさんはそれを俺どころかパンダたちに見られるのも恥ずかしいらしい。
一人で少し離れたところに行き、ばしゃばしゃと顔を洗っていた。
パンダたちはからかったりなんてしないのに。

ヒロさんの水音に誘われるようにして、俺も服を脱ぎ捨てて水に入る。
冷たい水の感触が火照った身体に心地いい。

 

「ヒロさん」
避難したにも関わらず群がる仔パンダたちに観念して遊び相手をしているヒロさんに声を掛ける。
「なに、野分?」
「……今日、何の日か知ってますか」
意味深な声色を作って、ヒロさんに尋ねる。
「………あいつの生まれた日」
ヒロさんの顔は赤く、ちゃんと何の日か覚えてくれているとわかって嬉しくなる。
俺の隣にいる最年長の母パンダが仔パンダを生んだ日。
俺とヒロさんが初めて出会った日だ。
「何年前だっけ」
「何年前でしたっけ」
「……7年前だろ」
「はい、7年前です」
にこにこと答えるとヒロさんに睨まれた。

わざとらしく伸びをして、ヒロさんが言った。
「それじゃ今日は酒でも飲むか」
「そうですね」
誰も知らない、二人だけの記念日。それから、これからもいっしょに過ごしていくことを誓う約束の日。
ヒロさんが一生俺の側にいてくれることに、完璧な自信があるわけじゃない。
だけど、こうやってヒロさんと確かめ合うことで、少しずつ俺の自信になっていく気がする。

 

 

濡れた髪の雫を払うようにヒロさんが頭を軽く振ると、風がヒロさんの髪をなびかせた。目を細める俺を、怪訝な目でヒロさんが見つめる。
「そろそろ体、冷えますよ」
そうだな、とヒロさんは素直に水から上がり、髪を拭き始めた。

帰り道、遊びつかれたのかヒロさんはパンダの背の上で、俺にもたれかかって寝息を立てていた。
健やかな呼吸が聞こえてくるたびに、愛しさで胸が苦しくなるような気分になる。

 


背中に感じる幸せの重みを決して手ばなしてしまわないように、ぎゅっとヒロさんの手のひらを握り締めて家路を急いだ。

 

 

 


END

 

 

 

 

2011/06/18 発行

2011/07/18 WEB再録