◇不道徳な夜◇ やや手狭な部屋にごろりと転がり右手で本棚に手を伸ばそうとしたところでふと手を止めた。 もちろんここが俺の部屋ならば手を伸ばして小説だろうが雑誌だろうが手に取ることに何の問題もない。 無論、レポートの締切前などといった付加的な条件がついた場合はまた別である。俺がここでためらった理由というのは要するにここは俺の部屋ではないのである。 この部屋の持ち主である草間野分というのは性惰温厚篤実誠実という道徳の手本のような男だった。 そのような男が同性である俺とねんごろな関係になっているのだから道徳不道徳混在すること甚だしい。 俺が彼の部屋でこうして寝転がっているのも彼が鼻歌混じりで現在風呂を浴びているのも、我々がこれから不道徳な行いを致そうとしている所以である。 不道徳不道徳と連呼するとどうにも人の道を踏み外した者のように感じられるが、俺や野分が抱いている感情はこれ以上ないくらい人間的なものだと自負している。 ただ人間的過ぎてたまに煩わしい。 さて部屋の主が目を離している隙に、俺は何をするべきかという問題だ。 この本棚に手を伸ばしたのは若干の無聊を慰めようとしただけで、あれやこれやと野分のプライベートな部分を嗅ぎ回ろうという廉恥を知らぬ真似をしようとしたわけではない。 しかしこのようなよんどころない関係の二人がお互いのことをより知り合うべくこそりこそりと動き回ったとて、世の人はそこまで声高に非難はすまいと考えている。 気にすべきは己の目、自己を律する心だ。 恋うる相手のことが知りたくてここそこと手当たり次第探るようなところを目撃されては、俺は自身の誇りに散々砲撃を浴びせられること必至である。 そう、俺は冷静な様子を突き通さなければならぬ。
「ヒロさん、アルバムだったらこちらに。」
結局野分が風呂場から戻る前に文集だアルバムだといったいわゆる野分の思い出の品を見つけだすことあたわず、 さらにそれを目撃された挙げ句ににっこりと笑顔で目的の物品へ誘導されるという事態になった。 まさしく恐れていた己の誇りがどかんどかんと近代におけるアームストロング砲もかくやという勢いで全身を羞恥心まみれにするという結果になったのだけれど、 この草間野分という男。恥とプライドで汚濁した俺の体をふわりと抱き寄せ一方的な睦み事を囁くという反則技を涼しい顔で繰り出してくる男なのである。 かくして俺はこの夜恋うる相手の腕の中思い出のページをめくるという赤面ものの睦み合いをすることと相なった。耳元で囁かれる言葉は舶来の菓子の如く攻撃的に、甘い。 END 2010/06/23
◇endless◇ いつの間にか、あなたの背を追い越していた。 *** 初めて会ったとき、その人は俺を知っていると言った。 「どこかで会いましたか。」 「いいや、どこでも。」 「?」 まだ幼かったからその人の言っていることがおかしいとは思わなかったのだ。 ただ、公園でいっしょにブランコに乗ってくれて、それがとても嬉しかった。 そうして、俺は実はもらわれっ子なんですよ、とか、将来夢があるんです、とか他愛もない話を聞いてくれた。 「野分ならきっといい医者になる。」 夕日に目を細めながらその人は言った。 暗くなるからもう帰りな、と言う彼に最期に名前を聞いた。 「……ヒロ、だ。」 「ヒロさん、また会えますか。」 「ああ、お前が会いたい時に。」 それからは俺の人生には常にヒロさんという光があった。 ヒロさんがいるから、俺はどんなことでも頑張れる。 そう思っていた。 志望校の合格通知が届いた日も、真っ先にヒロさんに見せに走った。 ヒロさんはいつもの場所で俺を待っていてくれる。 「よかったな。すごいじゃねーか。」 「ヒロさんが応援してくれたおかげです。」 俺と同じくらい嬉しそうな顔で葉書を見つめているヒロさんの、ふわりと柔らかい髪を見下ろす。 抱きしめると、抵抗もせずに俺の腕の中に納まってくれた。 「ねえ、ヒロさん。俺、昔はあなたよりうんと小さかったのに。」 「……。」 「今は俺の口があなたの額の高さにあります。」 「……っ。」 どうしてあなたは、と言いかけたとき、ヒロさんは身を翻すようにして姿を消した。 あなたはどうして出会ってからずっと姿が変わらないのですか。
***
「お前すごい人と知り合いなのな。」 「えっ?」
昨日からずっとヒロさんのことが頭から離れず学校でぼんやりとしていると、クラスメイトに話掛けられた。 「昨日お前が公園でいっしょにいた人。」 「ヒロさんを、知ってる……?」 ヒロさんについて結局何一つ、本当の名前も何も知らなかった俺は身を乗り出した。 お前何にも知らずにしゃべってたの、とからかわれるのにも構わず、何でもいいから教えてくれと頼んだ。 「上條家の跡取り御曹司だろ。お屋敷が近所にあるとは聞いてたけど、フツーに街歩いてるもんなんだな。」 彼が言うには、普通は俺らのような人間は顔も拝めないような人物なのだそうな。 「そういえば今度、婚約パーティがあるらしい。やっぱ庶民とは違うねー。」
ヒロさんは俺の知らない誰かの伴侶になるという。 自覚し始めたばかりの俺の恋心をずたずたに引き裂くには十分な衝撃だった。 ***
「ヒロさん。上條、弘樹さん。」 黙って悲しそうにヒロさんは首を振った。 「あなたが何者でも構いません。だけど、俺は……。」 首筋にあたたかいものが触れた。
「ごめん、野分……。ごめん……。」 そう繰り返しながらヒロさんは俺の頬に口づけをした。 ヒロさんの顔を両手で包みこみ、ゆっくりと今度は唇同士を重ねる。 「……こうしてお前に会うのは今日が最後だ。」 「ヒロさんッ!!」 「ごめん、野分。俺はお前が好きだった。」 「俺もです。だからもっと俺と……!」
ヒロさんは少しだけ笑ってくれたけど、それでも俺は彼を引き留めることはできなかった。 今生の別れ、という言葉が頭をよぎった。 *** 我ながらみっともないとは思うけれど、このままヒロさんをあきらめることはできなかった。 一目だけでも会いたい。 警備員の並ぶ建物の壁をよじのぼり、中庭に忍び込んだ。 奥には婚約パーティに招待された来賓たちが談笑しているのが見える。
ふと建物のバルコニーに目をやった。 「………!!」 来賓たちに囲まれて、そこにはヒロさんがいた。 その瞬間、ヒロさんの悲しそうな視線がぶつかった。 この時初めてわかったんだ。 俺たちは、今、初めて恋に落ちたんだと。
俺が口を開く前に、ヒロさんはバルコニーから身を投げた。 思わず目をつぶったけれど、そのまま何の物音もせず、ただヒロさんの姿だけが消えた。
異変に気付き騒ぎ始める人々。 呆然と立ち尽くす俺。 ヒロさんはどこへ行ったのか。 それは俺だけが知っている。 彼は時空の海へ身を投げたのだ。 自分が誰かのものになってしまう前に、俺と恋をするために。 この恋は永遠に成就することはない。 だけど俺たちは時間の波の中、繰り返し恋に落ちる。 繰り返し、何度も。 END 2010/01/24 ※「マリーン」のパロなのでこっちに…
◇予感◇ 雨が降る、とか雪が降る、とかいったことが感じられるのは人間の五感がまだまだ衰えていない証拠だと思う。 雨が降る前には独特の鼻の奥をくすぐるような匂いがするし、雪が降る前には心まで覆ってしまいそうな暗い雲になる。 それを他人に告げても五割以上の確立で同意してもらえるのではないか。 ただし、降りそうだと思ったときには傘を持たずに出かけていて、結局濡れてしまうことがほとんどなのだけれど。 そんなわけで、抱き締められる、と思った時にはすでに俺は野分の腕の中にいるのだった。 気付くポイントはいくつかあって、それは野分の台詞だったり、家に帰ったときの様子だったり。 「今日は特別に寒い気がします。」 耳が赤い。 帰ったらすぐに外すはずのマフラーをいつまでもつけっぱなしにしている。 「ヒロさんの研究室はあったかいですか?」 飲み物はどっちがいいかと俺が尋ねると、コーヒーではなく紅茶を選んだ。 「明日は俺、休みです。」 メールで昨日知らせてくれたことを、もう一度口に出して告げる。 一口紅茶をすすった野分の手が珍しく俺の手よりも温度が低いことに気付いたときには、その手はすでに俺の背中にまわされていた。 ぬくぬくと二人で体感温度を少しずつ上げていきながら、この察知能力について考える。 五感を駆使してこれを察知したところで、どうしろというのだろう? 別に逃げ出すわけでもなし。 身の危険に直結することだって、年に数回だ。 まあ、さしあたって便利だと思うのは。 「そろそろ離れろって。」 「もうちょっとこのまま……。」 「お前は、」 「え?」 「お前は今とても腹が減っている。」 大当たりです、と野分が腕を緩めると盛大に腹の虫が鳴いた。 野分を飢えさせずに済むというのは二人暮らしをする意義からいっても正しい能力の使い方だと思う。 飯にするぞ、と言えば忠犬の足音がパタパタとリビングに響いた。
END
2009/12/28
◇昔話◇ 夜というものは幼心にそれなりにおそろしかった。 祖母などに夜に騒いでいるとヨブスマが出るよ、とよくおどされたものだ。 それは子供たちをしつけるための常套句だと今ならばわかるけれど、 夜という存在そのものが持つ底の知れなさと得体の知れない名前があいまって、誰にも言わなかったが俺は密かに怖がっていた。 夜に大きな声を立てると、何か良くないものが俺の元へやって来る。 しかし大人になってそんなことをすっかり忘れた俺は、灯りを全て消して眠るようになった。 眠りを得るには身体を全て闇に浸す。 これが一番良い。 闇、という言葉が指す中には野分という大きな真っ黒い男が含まれることもある。 その大きな身体に包み込まれて俺は夜を怖れることもなく朝を迎える。 野分の黒い瞳はやはり底が知れず、無条件に俺に注がれる沸点を超えてしまったような感情も得体が知れなかったが、俺はもはやそれらを怖れなかった。 「声出すの恥ずかしいですか?」 野分が俺の唇を撫でながら誰かの小説のような台詞を吐くので俺は呆れてしまった。 汗で濡れた俺の腕には自分の歯型と野分の唇の跡が混在している。 「夜は大きな声で騒がないって教わらなかったか。」 そう言って睨むと野分はおかしそうに笑った。 ヒロさんのそういうところが好きです、と。 仕方なくヨブスマの話をしてやると、野分はおもむろに窓の方を指差した。 「それならもう、そのあたりにいるかもしれませんよ?」 別に俺はもう怖くないと言って布団をかぶると、野分はその上から抱き締めてきた。 ほら、だからもう俺は夜を怖れない。 END
2009/08/07
◇夕涼み◇ 「夏が好きだ。」 ひとりごと、である。 そうつぶやいてみても別に返事をしてくれる人間は周囲にはおらず、言葉は吹き溜まりへと転がっていった。 そしてすぐにリビングのつけっぱなしのテレビからあふれてくる雑音にまぎれてしまった。 「夏が、」 妙な意地が顔を覗かせてきたのでもう一度繰り返そうとする。 が、なんとなく『夏が好き』と『野分が好き』が似ているような気がして途中で口ごもってしまった。 あきれた連想ゲームだ。 夏は夜とは千年経った今でも上手いことを言ったものだと感心させられるフレーズで、事実夏の夕刻の心地よさは筆舌に尽くしがたい。 日中の暑さが抜けた不思議な温度の風が素肌を通り過ぎれば、日に焼けた草やら道路やらの匂いが鼻をくすぐる。 焼けつく太陽に抱きすくめられた身体を涼ませるのは、やっぱり夏の風というわけで。 カラカラとガラス戸を引いてベランダに出れば、すっかり風は冷たくなっていた。 「ヒロさん、今日身体冷やしてませんか。」 風呂に入ろうとすると野分がそう言って後ろから抱きついてきた。 こいつの身体はまだ昼間の暑さを十分に宿していて、回された腕から温かさがゆっくりと移ってくる。 「なんで。」 「ほら、唇が。」 そう言うや否や野分は軽く唇の表面を撫でるように二回キスをすると、二回でやっといつもの色に戻ったからやっぱり今日は少し唇の色が薄かったです、と説明をした。 「……わけがわからん。」 やっと返事をする頃にはすでにいつもの色を通り越してしまっていたことだろう。 こいつは毎度毎度俺を風呂でのぼせさせる気か。 「夕涼みくらいで風邪なんかひかねーよ。」 野分の頭に手刀を置いてささやかに反論すると、ゆっくりと微笑まれた。 「じゃあ、今度は俺も夕涼みにつきあわせてくださいね。」 お前といっしょじゃ涼めるかわかんないけどな、と言いたいのをこらえてうなずいてみせた。
「夏は好きだからな。」
END
2009/06/17 |