「セプテンバーバレンタイン」

 

 

それは確かに偶然だった。

先に声をかけてきたのは向こうの方だ。
その時、俺は嫌悪感を感じていただろうか。
それとも戸惑いか。
今となってはあまりはっきりとは思い出せない。


「一人?もしかしてお酒以外の相手も探してたりする?」


俺が初めて抱いた男は、俺が世界で一番嫌いな男によく似ていた。


よくない出会いだ。
うっすらとそう思った、ような気がする。

 

 

 

高校生の頃までは、吉野に対する思いはずいぶんコントロールできていた方だと思う。
なんだかんだで吉野はいつも俺の隣にいたし、あいつの屈託ない表情を見ていると、俺たちはいつまでも友達でいられると信じることができた。
自分の理性に不均衡が生じたのは、吉野のデビューが決まった頃だった気がする。
それまではほとんど毎日顔を見せていたのが、一日おきになり、二日おきになり、しまいには大学には顔も見せず一週間下宿にカンヅメになることもあった。
漫画の原稿に没頭しているのはわかっていたので、たまに差し入れを持って行ってやるくらいのことしかできなかった。
そんな当時の吉野の傍にいたのは専ら原稿を手伝える柳瀬だった。


ほとんど常に傍にいた吉野がいなくなると、自然一人で吉野のことを考える時間が増えた。
俺と吉野はこの先どうなるのか。
(どうもこうもないか……)
幼なじみで一生の親友。
それが俺の望み得る最大のポジションだ。
そんなことは考える間でもない。

問題は、俺がそれに耐えられるか、ということだ。

吉野がプロの漫画家としてデビューが決まった時から、漫画編集になることを決めていた。
最終的には吉野の担当編集になることが目標だ。
柳瀬あたりに聞きつけられたら狂ってると唾を吐かれるだろう。
俺だって狂ってると思う。
一生想いが報われることのない相手のために将来を決めるなどと。


いくら吉野が親友だからといって、この悩みだけは話すことができない。
吉野を思うこと自体だいぶ辛くなっていたが、それ以上にこの感情を表に出せないことが辛かった。


ストレス解消は下手な方だと思っている。
酒や女が手っ取り早いのかもしれないが、根が貧乏性なのだ。
つまらないことに時間を割きたくないと思ってしまうともうダメだ。
のめり込む前に完全に冷めてしまう。
今まで付き合ってきた相手にも、だいたいその辺りの理由で振られていた。

 

 


その日も一人で飲みながら酔いきれず、そろそろ切り上げようかと思っていたところだった。
酔えないのにダラダラ飲んでいてもしょうがないだろう。


そんな時、声を掛けてきたのがあいつだった。

「お酒以外の相手も探してたりする?」

馴れ馴れしい物言いだったが、相手との境界線はしっかり引かれている妙な男だった。
(……似てる)
第一印象はそれだった。
小顔でつり目で(吉野に言わせると)ネコ顔の美人。

俺に誘いをかけてきた男は、柳瀬にとてもよく似た容貌をしていた。

骨格が似ているのか、声も物言いも柳瀬に似ている気がした。
違うところはと言えば、その男はゆるく髪にパーマをかけている。
俺の気持ちに薄々感付いている柳瀬が俺をからかいに来たのかとも思ってしまった。

「……俺がそういう風に見えるか」
我ながら呆れるほど不機嫌な声が出てしまったが、そいつはまったく怯まなかった。
「見えるね。けっこうわかる方だからさ、俺」
カンに触る言い方もそっくりで、本当に柳瀬ではないかと疑ってしまう。
「本当に初対面なんだろうな」
思わずそうつぶやくと、さもおかしそうに笑われた。
「こういう時は『どこかであったことある?』って口説くもんじゃないの?あんた面白いね」
別に口説くつもりはなかったのだが、そいつの頭の中ではそういうことになっていたらしい。

 


飲む場所を変えよう、と言われてのこのこついていった先はホテルで、思っていた以上に俺は酔いがまわっていたらしいと悟ったのはベッドサイドに腰掛けてからだった。

 


本命は吉野でありながら、他の女性と付き合うことに後ろめたさを感じたことはなかった。
むしろ、俺はストレートだと思ってくれていた方が都合がいい。
女っ気が皆無でいらぬ疑いも持たれたくない。
吉野に彼女ができることも、嫉妬はするけれど安心する気持ちもあった。

じゃあ、他の『男』と関係を持つことは?
それは吉野に対する背信行為ではないのか?

(背信……ね)
それを言うならば、幼なじみの友人だと信じ切っている吉野に対してこんな欲望を抱くことの方がもっとひどい裏切りかもしれない。
一人で自嘲気味に笑うと、顔を覗き込まれた。
近くで見るとますます大きい瞳をしている、と俺は少し感心した。

「名前聞いていい?」
「……羽鳥」
「いい名前だね。俺はユウ。呼び捨てでいいよ」
「……ッ!!」
ここまでくると、偶然の一致にもほどがある。
絶句している俺に、ユウは面白そうに尋ねてきた。
「なに?なんか心当たりのある名前だったりした?」
「いや、別に」
「あっ、もしかして好きな奴の名前とか」
「違う」
軽く否定すると、つまらない言葉を続けたそうなユウの唇を強引に塞いだ。
最初は驚いたようだったけれど、積極的に応えてきて逆に押し倒されてしまった。
楽しそうに俺を見下ろすユウに教えてやる。
「大嫌いな奴の名前だよ」
にやりとユウの口角が上がった。

「あっそう。そーいうのも面白いじゃん」

なされるがままに、俺は服を剥がれた。
お互いのボタンを外す指の動きにためらいはない。
そのままさりげなく体勢を入れ替えた。
「大丈夫?タチネコは合ってる?…俺はネコ専なんだけど。」
「………」
「男は初めてとか?俺は別にいーよ。気にしないし、教えてやるし。」
「……黙ってできないのか」
「緊張してるかなーと思ったんだよ。どうせ他に本命いるんだろ?そいつのこと考えててもいいけど、ヤってる時に間違っても俺以外の名前呼ぶんじゃねえぞ」
「はあ?」
「嫉妬深くてね。……それがいきずりでもなんでも!!」
そう言うと、狂ったように噛みつかれた。

「片思い?三角関係?不満溜まってるなら俺に全部ぶつけていいよ。俺も遠慮しないから」
「……ユウ……?」
「あ、ちゃんと名前呼んでくれるんだ。できる男だね」
相変わらず余計なことを口走りながらも、合間に漏れる吐息は熱の上昇を伝えていた。
ユウに言われるまま指を探り込ませ、こちらが心配するのを余所に急かすように身体を繋げられた。
おそるおそる腰を揺らすと、眉根を寄せて表情を歪ませた。
近くに抱き寄せれば別人と認識できるかと思ったが、切なげに喘ぐその顔はおそろしいほど柳瀬に似ている。

自分でも浅ましいと思うが、柳瀬を犯しているようで少し興奮した。


ユウはたぶん上手かったのだろう。
久しぶりに、身体の方が赤信号を示すまで行為に没頭してしまった。

 


「また会ってくれる?」
「……気が向いたら」

素っ気ない態度とは裏腹に、ユウとの関係は何回か続いた。
その間、吉野と会う時間はますます減っていた。

 

 

 


「お前ちゃんと飯食ってるのか」
事後にベッドでぐったりとしているユウの細い腰を見て思うところがあったので、そう尋ねてみた。
「男の一人暮らしだぜ?てきとーなもん食って暮らしてるよ」
柳瀬では到底考えられないような答えが返ってきて、俺は安堵に笑った。
「てゆーかあんたくらいの男が食事の心配とか、可笑しい。見かけによらず母親みたいなこと言うんだ」
いつもの屈託のない笑い声が聞こえてきた。
それを聞いて確かに、と思う。
大学生になって一人暮らしを始めてから、せっせと自炊するようになったのは他でもない吉野のためだ。
吉野が近所で同じように一人暮らしをしていなかったら、毎日外食とはいかないまでも、もう少し適当な食生活を送っていたかもしれない。

吉野が、いなかったら。

吉野がいなかったら、今みたいに悩んだりせず、普通に恋人を作って、安定した仕事について、家庭を持って。
そんな穏やかな人生、想像すらできない。
俺はたぶん息をするように吉野を愛していて、いくら心が平穏になっても、吉野がいなければ息も心臓も止まってしまう。

だからこそ、俺は自分の気持ちに折り合いをつけて生きていかなくてはいけないのに。

 

 

「……ケータイ」
「え?」
「ケータイ。鳴ってる」
寝転んだまま、ユウが俺の上着を指差した。
「すまん」
一言断って、携帯電話を手に取った。
着信相手だけ見て切ろうと思ったが、電話をかけてきたのはなんと吉野だった。

「もしもし、吉野!?」
ユウといっしょだということすら忘れて、夢中で通話口に話し掛けた。
この数週間、会うことはもちろん、吉野からこうやって連絡してくることすら稀だった。
「吉野?なんかあったのか?」
『あ、トリ、久しぶりー』
気の抜けた返事が返ってきて、思わず眉間に皺が寄る。
『聞いて、今原稿終わったとこ。超疲れたー、腹減ったー』
「お疲れ。……用件はそれだけか」
『いや、そんでさ、トリのご飯食べたいなーと思って。……だめ?』
甘えたように笑いかける吉野の顔が頭に浮かぶと、じっとしてはいられなかった。
何より原稿を終えて一番に自分に連絡してくれたことが嬉しかった。
「わかった。今から行ってやるから待ってろ。」
『やった!さすがトリ!』
「はいはい」


通話を終えて携帯電話を切ると、ユウはすっかり服を着終わっていた。
「本命の人?」
「………」
「謝らなくていいよ。行かないで、とかも言わない。わかってたことだし」
ユウはいつもの勝ち気な顔で笑っていた。
だけど、声はまったく楽しそうではなかった。

「そのかわり、この先会うのはなし、な。言っただろ?嫉妬深いって」
「……すまない」
「いいよ、俺の勝手だ。次あんたと寝たら、たぶんあんたのそれ噛み切るから」

「だから、まあ、その人のところに行きなよ。それが一番だろ」

後ろめたさに何も言えない俺を、ユウはドアのところまで見送ってくれた。
その間も表情は崩れなかった。

「うまくいくといいね。あんたも、好きな奴も、大嫌いな奴も」
「……お前も、な」


ドアが閉まり、気の利いた言葉をかけてやれなかったことを悔やむ程度には好意的な感情を持っていたことに気付いた。

 

 

 


簡単に作れそうなものを帰り道に少し買い、吉野の家に向かった。
トーンと消しゴムのカスが散らばったリビングで、吉野は満足そうな顔で俺を迎えてくれた。
きっとデビューしたばかりで、今が一番面白い時期なのだろう。
キッチンを借りて簡単なものを作ってやると、美味い美味いと言ってきれいにたいらげた。
原稿を手伝っていた柳瀬もまだ吉野の家にいて、横からつまみぐいをして文句をつけていた。
「千秋ってば俺が飯作ってやるって言ったのに」
「だってなんかものすごいトリの飯食べたくなったからさー」
「千秋から電話きてすぐ飛んでくるとか、羽鳥もたいがい暇人だな」
本当に言いたいことを言ってくれる。
俺が吉野に呼び出されたらすっ飛んでくることぐらいわかっているだろうに。

ごちそうさま、と手を合わせて吉野が俺の隣に寄ってきた。
「なんか最近自分のことばっかかまけててゴメンな。トリはどう?就活とかやってんの?」
「まあな」
「なになに?どういう業界行くの?」
「……出版社を受けようと思ってる。」
マジで!?と吉野が大きな声をあげた。
柳瀬は相変わらず冷たい目でこちらを見ている。
「えー、じゃあもし万が一トリが漫画編集とかになっちゃって、しかも俺の担当になったりしてー!」
「まあ、そういう可能性がないこともないな」
「わあーウゼー。俺千秋のアシスタントでやってこうと思ってたけど、お前が担当で入り浸ってるんならちょっと考え直すわ」
「優もまたそんなこと言うー。いいじゃん、これからも3人でわいわいやってればさ」


テンションが上がってきた吉野はどこからかビールを引っ張り出し、そのまま3人で朝まで飲んでいた。
この先も柳瀬がいっしょなのは俺だって願い下げだが、吉野がそれを望むのならば、しばらくは付き合ってやってもいい。

 

「友達っていいよな」
床に転がった吉野が半分くらい寝言のように呟いた。
「ああ、そうだな」
それがあまりに嬉しそうな表情だったから、仕方なく俺も嘘をついた。
ふと、別れ際のあいつの言葉を思い出す。
(うまくいくといい、か)
俺と吉野と柳瀬と、3人に均等なハッピーエンドは友情でしかあり得ないのだろうか。


残酷なハッピーエンドを今夜だけは払い飛ばすために、吉野にもう1センチだけ近づいて俺も横になった。

 

 

 


END

 

 

 

 

 

2010/09/23