はい、と言って手渡されたのは小さな短冊だった。 「トリもなんか好きなこと書けよ。」 そう言って吉野は仕事部屋に飾られた笹を指差した。 原稿の進み具合をチェックするために吉野の部屋へ寄ると、アシスタントたちがすでに帰ったあとの散らかった部屋に何故か笹が飾られていた。 しばし考えてからカレンダーを見て、なるほど七夕かと合点した。 こういう雑誌の仕事をしていると、どうも季節感が世間からずれてしまう。 数か月先に発行される号のための編集をしているので、なんとなく夏の行事はもう終わってしまったような気がしていた。 それを吉野の告げると、自分もそうだと言って笑った。
なんでもアシスタントの一人が笹を持ち込んだらしく、休憩時間にみんなで短冊を描こうということになったそうだ。 なるほどその小さめの七夕飾りをよく見れば、紙こそネーム用の適当な紙だが、一つ一つイラスト入りで可愛らしい短冊になっている。 吉野が今連載中のキャラクターだったり、自分の好きな漫画のキャラクターだったり、それが色えんぴつで彩色されていたりだとか、休憩時間の息抜きにしてはなかなか手が込んでいる。 だけど書かれている文字を見れば、 『旅行に行きたい』 『夏コミは新刊2冊』 『バーゲンで服と靴がほしい』 『次の締切は修羅場になりませんように』 『出会いがほしい』 等々、たいへん素直な願い事が書き殴られていて苦笑してしまった。 「で、お前のはどれなんだ?」 「さーて、どれでしょう?当ててみろよ。」 得意気に腕を組む吉野を横目に、ひょいと一つの短冊を取り出してみせる。 書いてある文字は、『休みがほしい』だ。 「……これだな。」 「ええー、なんでわかるんだよ。」 吉野は口を尖らせた。 あっさり見つけたことが相当不満なようだ。 「お前のことなら大体わかるからな。」 こういう時に短冊に何を書くかなんて簡単に予想がつくし、何より俺が吉野の字を見間違えるはずがない。 なおも不満そうな吉野は俺の手から自分の短冊を取り上げて笹の葉に戻すと、こっちを振り返って言った。 「じゃあ、今度は俺が当ててやる!」 「はあ?」 「俺はあっち向いてるから、書けたら教えろよ!」 そう言うと吉野はテーブルに背を向けてソファーに座ってしまった。 「ほら、さっさと書けよ。」 (…やれやれ。) 俺は腰を下ろしてため息をついた。 結局また吉野の思いつきに振り回されることになってしまった。 ボールペンを取出し、短冊を目の前にして腕を組む。
願い事、か。 思いつく限りを挙げていたらキリがない気がする。 まず吉野と同じく休みはほしい。 これはいくらあっても足りないものだ。 そしてそのためには、作家に締切を守ってもらわないと困る。 吉野ほどの締切破り常習犯がいるわけではないが、毎回締切前に全員の原稿がしっかりそろうなど夢みたいな話だ。 とりあえず短冊に書いて締切破りがなくなるのなら、『吉野が締切を守るように』と百回書いてやってもいい。 というか吉野の休みだって、自分がきちんと締切を守ればもう少し休みが増えるのではないかと言ってやりたい。 あとはそろそろ仕事のペース配分も覚えてほしい。 締切破ろうが守ろうが生気の抜け切った吉野の顔を見るのは少しつらい。 吉野の傍にいたくてこの仕事を選んだけれど、もし別の仕事だったならば、ああいう時にもっと違った接し方ができるのかもしれないと思う時もある。 疲れている吉野を抱き締めて慰めて、優しい言葉で甘やかして。 仕事の愚痴を聞いてやり、無理をするなと頭を撫で、次の休みにはいっしょに出掛けようと約束をして、ベッドに寝かしつけてやるのに。 だけど実際はネームがつまらなければ容赦なく描き直しをさせ、進行が遅れていれば遊ぶなと机に縛り付ける。 癒すどころかストレスのほとんどは俺が直接与えているようなものだ。 せいぜい吉野の好きな飯を作ってやるくらいのことしかできない。
吉野とのことで真剣に今願い事をするならば、純粋に恋人同士としての時間が欲しい、と思う。 編集と作家という関係も、昔からの幼なじみという関係も全部忘れてしまっていい。 ひたすら吉野のことを愛するだけの時間があったなら、どれだけ俺は満たされるだろう。 昼も夜も吉野と二人きりで、他の誰にも邪魔はさせない。 二人で寝室に閉じこもって、昼夜なく抱き合いたい。 悲鳴を上げる吉野の身体を無理矢理開いて、何度も何度も腰を打ちつけて。 耐え切れず気絶した吉野が起きるまで隣で髪を梳いてキスをしてやり、 目を覚ました吉野が腹が減ったと言ったら、飯を作ってベッドまで運んでやる。 満腹になったら手を繋いで少し微睡んで、体力が回復したら飽きずに何回でも気を失うまで吉野を抱く。 時の流れから切り離された部屋で、延々とそれを繰り返す。 仕事の話なんてしない。 嫉妬を覚えることもない。 ただ、愛してるとだけ囁き続ける。 そんな時間の過ごし方ができたら、吉野への尽きない欲望は少しでも和らぐんだろうか。 (……疲れてるな。)
馬鹿げた妄想にトリップしてしまった自分に呆れて首を振った。 吉野に片思いをしていた頃、よく自分を慰めるためにしていた想像だ。 曲がりなりにも吉野と付き合うようになってからは毎日の吉野との関係を維持していくのに手一杯で、そんなことを考えていたということ自体忘れかけていた。 実際付き合ったからといって、そう頻繁に身体を重ねられるわけじゃない。 だけど本物の吉野の身体は想像よりもずっと熱くて艶めかしかった。 俺にしがみつき、胸の下で眉根を寄せて喘ぐ吉野を見るたびに、まるで奇跡のようだと思う。 吉野が俺を受け入れてくれるという、起こるはずのなかった奇跡。 一度吉野の前から本気で去ろうとした俺を、吉野が必死で引き止めてくれたから、俺たちは今でもこうしていっしょにいることができる。 だから、本当は妄想のように狂った恋人同士の時間なんて意味がないことなのだ。 俺たちは幼なじみで、吉野は漫画を描いていて、俺は編集の仕事をしていて、その大前提で今の俺たちの関係は成り立っている。 「おい、トリ!書けたか?」 待ちくたびれた吉野が声をかけてよこした。 「ああ、書けた。」 俺は返事をしながら短冊を笹に素早く結び付け、吉野の隣に座った。 「で、なんて書いたんだよ。どーせ、俺が締切破らないように、とかだろ。」 吉野はわかりきったことだとでもいうように言った。 「ま、それは明日確かめるんだな。」 思わせぶりな口調で言ってやると、途端に吉野は焦り始めた。 「ちょ、ちょっと待てよ。みんなに見られて困るようなこと書いてねーだろうな!?」 「さあ?困るようなことって?例えばこんな……」 吉野の肩をぐいと引き寄せて、その唇を塞いだ。 「わあっ、あっ……ん……ッ」 驚いた吉野が口を閉じてしまう前に、強引に舌をねじ込む。 唾液をなすりつけるようにして舌を絡ませると、鼻にかかったような声が漏れ始めた。 「……ッふ……ァ……」 吉野の表情から戸惑いが消えてキスに夢中になってきたのを確認してから、Tシャツの中に手を入れて腰周りを撫で回す。 背筋がビクンと跳ね、その衝動で吉野が我に返った。 「んッ、ちょっと待てって……。俺これからもうちょっと原稿進めようと思ってたし……。」 「ああ、わかってる。今日は最後まではしないから安心しろ。」 「なっ……、さ、最後までとか……。」 できれば心ゆくまで抱き潰したいところだが、今は進行に響いては困る。 それでもなお不安そうな顔をするものだから、俺は少しキレ気味に言った。 「ほら、言いたいことがあるならさっさと言え。」 「…………えっと、一応ベッド行きたい……。」 真っ赤な顔でぼそぼそと告げる吉野が愛しくて、その細い身体ごと腕に抱え上げた。 欲情しているのか、俺の首筋に回された吉野の腕は熱い。 一直線に吉野をベッドまで運び、ボトムに手をかけようとすると、おずおずと吉野が口を開いた。 「トリもこのあとすぐ帰る…?」 「ああ、朝イチの会議の資料が家にあるからな。」 「そっか。」 少しだけ残念そうな顔の吉野に軽いキスをしてやった。 「明日また時間があれば原稿の進み具合を見がてら飯作りにきてやるから。」 「……うん。締切明けたらまた俺ん家泊まってどっか行こうな。」 「……ああ、そうだな。」 吉野は俺に首筋を噛みつかれたまま、俺のスラックスのファスナーにゆっくりと手を伸ばした。
『ずっと吉野といい仕事ができますように』 それが俺の書いた言葉だった。 吉野といっしょにいたいがためという不純な動機でこの業界に飛び込んだ。 理不尽なことやストレスばかり多くて、休みはほとんどない。 肝心な吉野にはプレッシャーを毎回与え続けるという損な役回りにもなってしまった。 本当にこれで正解だったのかと悩んだこともある。 だけど、吉野は昔と変わらず俺を信頼して頼ってくれる。 吉野が命を削って描いた漫画は、俺の手を通して世に出される。 それは何物にも替えがたい喜びだった。 今はきっと、恋人同士の甘い時間だけが欲しいなんて言ったら贅沢で罰が当たるだろう。 煩わしいこと、面倒なこと、全てをひっくるめて成り立っている関係だから、それを享受するしかない。 だから今は吉野の傍にいられることに感謝しようと思う。 夜風にさらりと揺れた笹の葉は、散らかった仕事場をささやかに彩っていた。 END 2010/07/08 |