「竜は多淫だと聞いたことがある。」 その腕に支えるには重たすぎる野分の身体を胸の上に抱えながらそう呟くと、可笑しそうに笑う声が微かにこめかみに響いてきた。 まるで顔の傍で鈴を鳴らされているような。 「多淫、はヒドいです。」 そう言って野分は俺の二の腕に軽く爪を立てて、鎖骨に噛み付いてきた。 わずかに触れる舌先はほんの少しでも熱く、まるでその奥に別の生き物を潜ませているようだ。 水を滴らせる蛟は容赦なく俺の体温を高めていく。 「それじゃあ好色とでも言ったほうが適当だったか?」 「ああ、全部『相手がヒロさんの場合に限り』をつければ正解です。」 無邪気な顔で笑うこの生き物の背中をゆっくりと撫でてやれば、ごろりと喉を鳴らして四肢を使ってまとわりついてくる。 古来暴れ神として言い伝えられてきた生き物が、こんなにもおとなしく俺の腕の中にいるとは誰も信じまい。 耳の後ろに指を滑らせると、気持ちよさそうに小さく呻いた。 「お前の逆鱗はどこにあるんだ?ここか、それとも……。」 「ヒロさんにはきっと探せません。でも、もしも触れてしまったらヒロさんの身体はきっと大変なことになりますよ。」 「……じゃあ、もう探さない。」 それがいいです、と野分は覆いかぶさってきた。 野分という名前を名乗る竜は、俺を慕って人間の形になったという戯言とともにやって来た。
昔から竜が人間の色香に誘われて里へ下りてくる話はよくあるので、設定自体はよくできていると誉めてやった。 ただし、俺はそんな生き物をひきつけるようなものは持っていない。 そう言ったが、野分信じるも信じないも気にはしないという素振りだった。 しかしよく考えてみれば好色な竜が手を出すのは人間とは限らないという話も多いということを思い出したため何やら脱力してしまい、野分を家に迎え入れてやることにしたのだった。 どうせ人と交わって楽しむために人間の形になったのだろうと言ってやると、野分は首を振る。 「俺は違います。」 ヒロさんのためだけに俺は人間になったんです、と告げる野分の眼はどこか寂しげだったので、俺はつまらないことを言ったと胸が少しだけ痛んだ。 それから野分は俺の手足のように傍にいるようになった。
「ヒロさんがいなくなったら、俺も姿を消します。」 俺のために人間になるとはそういうことだと野分は言った。 野分の眼に以前のような寂しい色がなかったので、俺は焦った。 この竜はとんでもないことを決意しているようだ。 「お前の生涯はもっとうんと長いんだろう。俺といっしょに終わらせてしまっていいのか。」 人間の一生など、天上の生き物にとってはほんの瞬き程度でしかないだろうに。 「子を作らなくてもいいのか。」 俺にはそれを手伝ってやることはできないが、竜はその血を地上に分ける生き物だ。 俺なんかのために竜の血を絶やすことはないのではないか。 「この時代に竜種はきっと良くありませんから。」 だから人と交わるのは俺が最初で最後にしたいのだそうだ。
「だけど死ぬことはない。」 「死にはしません。姿を消すだけです。」 「同じだろう。」 「形だけを消して、ただ水を司るだけの存在になります。」 「だから野分という人間はヒロさんがいっしょに連れて行ってください。」 それがお前の遺言かと問う前に涙があふれてきて、一生をともに過ごすと約束されたというのに、悲しさで身体の外側が覆われてしまったようだった。 俺が死ぬ間際、野分が顔を寄せるので俺はその耳にそっと口付けをする。 そうして一匹の竜はその身を誰の眷属ともせず、俺は野分という人の形の手を引いて黄泉比羅坂へと歩いていくことだろう。 あるいはそんな日はこないのかもしれないけれど、この小さな御伽噺を胸に抱いて眠るのは今では何よりも俺を満たしてくれるのだった。
END
2009/11/30 |