「樹海の入口」

 

 

「お茶、淹れたら飲みますか。」
「ん……頼む。」
「……はい。」

書きかけの文書ファイルを一旦上書き保存して、椅子から立ち上がった。
そのまま少しだけ上司の様子をうかがって、給湯室へと向かう。
ポットにお湯が汲んであることを確認してから、ごそごそと流し台の引き出しを開け閉めしてお茶葉を探した。
メンドウなので直接急須に茶葉を入れ、お湯をそそいだ。
淹れたてのお茶の香りがただよってくるまでしばしぼーっとしていたら、湯飲みを要していないのに気付いて慌ててしまった。
(この…ミョーにラブリーな湯飲みが教授のか……?)
あまりに彼のイメージとかけ離れていたため戸惑ったが、とりあえずそれを食器棚から取り出し、自分の分の湯飲みがなかったので仕方なくコーヒーカップに緑茶を注いだ。

最後の一滴を注ぎきって、右手に湯飲み、左手にコーヒーカップを持ってため息をついてしまった。

「……間が………、持たねえ………。」

 


※※※

 

「……どうぞ。」
「どうも。」
素っ気ない会話をかわして湯飲みを机に置くと、俺も席に戻ってお茶を一口すすった。
コーヒーカップで飲むお茶は妙に熱い。

斜め向いの席で、湯飲みを片手に一心不乱に文献を読み漁っているのが俺の上司だ。
文学部の宮城教授と言えば、その世界ではちょっとした名前だった。
大学院に進学したものの、文学部の職員の口などそうそうたくさん募集しているものではないので、職が決まったことは本当に幸運だった。
ゼミの先生は君ならきっと引く手は多いよと言ってくれたが、それでもあの宮城研究室に所属することができたのはラッキーだったと思う。
学生時代から、フィールドワークを基盤とした研究で次々と成果を上げている若手の研究者がいるという話を聞いて、ずいぶん憧れたものだった。
その人が教授となって新たな研究室を立ち上げるにあたり、助手を募集しているという話を聞いたときに、ここしかないと思った。
あの人の下でなら、俺のしたい研究ができる。
このチャンスを逃したらきっと一生後悔する。
願ったとおり助手の座に着くことができたとき、将来への道を確かに踏み出した感触を感じた。

そして当の宮城教授本人である。

この研究室へやってくるまでに、当然何度か顔を合わせた。
第一印象は、人当たりのよさそうな人だな、と思った。
研究室に閉じこもっているタイプならば気難しそうな感じになるのかもしれないが、この人がやってきた研究の業績を考えれば納得がいく。
この人は自分の足で資料を掘り出してくるのだ。
コミュニケーション能力が乏しくてはこうはいかないだろう。

綺麗に整頓された研究室に通され、今まで自分がしてきた研究内容の話などをしながら、簡単に挨拶をした。
「君の先生の話じゃ、ずいぶん優秀だって聞いてるから助かるよ。」
「いえ、まだまだ半人前です。」
とりあえずスタッフも少ないし、しばらくは俺の手伝いなんかをしてもらうことになるだろうな、と教授は言った。
しかし、実際に彼の研究にこの手で触れることは大きな糧になるだろう。
初めて教授の助手として研究室へ行く日を、実際俺はとても楽しみにしていた。

すでに学生の姿がまばらになった3月、俺はパソコン一つ抱えて研究室の扉をたたいたのだった。

研究室は研究だけに没頭していればいい場所ではない。
職員として研究室に入ってみた、その事務仕事の多さに驚いた。
忙殺というほどではないが、思い描いていたほど教授と研究の話をする時間は多くはなかった。
(ま、そもそもしゃべることが少ないからな。)
とっつきにくい人ではないが教授が資料とにらみあっているときには話しかけづらいし、前のゼミとは勝手が違うところも多く、俺もできることが限られていた。
この人の下についたら、研究についてあんな話やこんな話で盛り上がれたらいい、なーんて考えて浮かれていた自分が少し恥ずかしくなった。
そして人付き合いに長けているとはいいがたい自分のこの性格。
学生もおらず、とかく二人っきりになりがちなこの空間が若干気まずいものに感じてきた。
そんな時にふと思い出す母親の笑い話。
『母さんたちはお見合い結婚だったから、話すことなんか何にもなくって夜は二人でお茶飲みながらオセロばっかりしてたのよ。』
ガキのころはバカみてーと笑っていたが、今は笑えない。
なんだ?ここは見合い結婚の新婚家庭か?!


ほぼ飲みきった緑茶をしつこくすすりながら教授の背中を見つめる。
この状況を打破するためにも何か話しかけるべきだろうか?
とは言っても何の話題があるのだろう。
ニュース?趣味の話?家族の話?
ああでもプライベートな話題振られたら野分の話とかできねーし、他の器用な話題も思いつかないし、どうしたものか。

「あのー…。」
「なんだ?」
「いえ、………湯飲み片付けますね。」

結局なんの解決策も思いつかず、今日も黙々と仕事をして帰ってきてしまった。

 

※※※


「ヒロさん、なんか元気ないように見えますけど。」
昨日の晩からウチに上がりこんでそのまま泊まっていた野分が、出掛ける俺を見て言った。
「仕事、大変なんですか?」
「あー、いや、別に。…心配すんなって。」
それでも野分は首を傾げていたけれど、こんなことで野分に気を使わせてはいけない。

「ヒロさんは、いつも元気で怒鳴ってるくらいがちょうどいいですよ。」

なんだかとても失礼なことを言われた気がしたが、その笑顔が眩し過ぎて、力なくうなずくと靴を履いてでかけた。

「おはようございます。」
いつものように研究室の扉をあけると。


「……は……?樹海……??」


そこには一面の本の樹海が広がっていた。

「教授、いるんですか……。」
「おお、上條か。いいところにきたな。」
樹海の幹にあたる部分から教授の声が聞こえてきた。
しかしその姿は見えない。
「ちょっと探し物してたら散らかっちまってなー。」

昨日はこんなに大量の文献がこの部屋にあっただろうか。
それを散らかったって、一体どこから出現した?異次元か??!
どうやったら一日でこんなに部屋の状態を豹変させられるのだ。

「どうしても午後までに探したい資料なんだけど、いっしょに探してくれんか?」
「探すって……。」
「とりあえずあっちの山は崩してみたから、こんどはこっちを崩して」


「ものを探す基本は『散らかす』じゃなくて『整頓する』でしょうが!!!!」

俺の怒声で本の山が三つほど雪崩を起こした。

 


※※※

 

その後は教授がオッサンのくせに小動物のような泣き顔で懇願するので、山を分け入りながら目的の資料を探した。
もちろん探しながら延々と説教だ。

「上條ってこんなキャラだっけ…。」
「俺だって教授がこんなどうしようもないオッサンだと思いませんでした。」


よくわからないが、その日から教授と二人きりの空間がそれほど苦痛なものではなくなった。

 

 

 

 

 


END

 

 

 

 

2009/11/13