とんとんとん、と乾いた音を立てながらコンクリートの階段を駆け上がる。 肩には少し重たいボストンバッグをかけていたけれど、俺の足取りは軽かった。 階段を上りきってドアを開けると、聞き慣れた、だけど俺の気持ちを浮き立たせる声が聞こえる。 「おはよう、野分」 「……おはようございます!」 ひょいとスタジオから顔をのぞかせたヒロさんは、すでに顔を少し上気させている。 軽く体を動かしていたのだろうか。 この可愛い人が、俺が通うバレエ教室の主だ。 ヒロさんこと上條弘樹さん。 目下俺の片思いの相手だった。 ※※※※※ 初めてヒロさんの姿を目にしたのはあるバイト帰りの夜だった。 この辺りにできたばかりのバレエ教室があるのは気付いていた。 夕方くらいに教室の前を通ると、かすかにバレエの練習用のピアノ曲が聞こえてくるのだ。 きっとこれはフェッテの音、たぶんあれはアラベスクの音。 そんな風にレッスン風景を考えながら歩いていたけれど、スタジオの中を覗いたことはなかった。 だけど、その日の深夜。 こんな遅くに灯りがついているのが気になって、ガラス窓の方を見上げてみたのだ。 窓際でヒロさんが踊っていた。 あとにも先にも美しいという感情に胸を打たれたのはこのときだけだ。 向こうがこちらに気付かないのをいいことに、しばらく俺は彼を見つめていた。 くるくるとシャープな動きで移動したかと思えば、すっと揺らぐことなく止まり、そのまま細い彼の四肢が綺麗に伸びていく。 何より俺を虜にしたのは、練習を終えたあとの彼の表情だった。 一息つくと、彼はとても満足そうに笑うのだ。 ああ、この人は心の底からバレエが好きなのだとわかると、苦しいくらいに胸が痛んだ。 俺は最初、その苦しさは自分のバレエへの良心が痛んでいるのだと思った。 十二の頃からバレエを始め、ずっと休むことなく続けてきた。 もちろん俺はバレエが好きだったし、幸いなことに練習するだけ上達したからやめることなんて考えていなかった。 子供の頃はそれでもよかった。 だけど、自分一人の力で生活をするようになってから、ふと悩むようになってしまったのだ。 俺のバレエはこの先どこへ向かっていくのだろう、と。 バレエ教室では男の踊り手が少ないせいもあって、どこへ行っても舞台に出るように言われた。 公演に出ることに興味がないわけじゃないけど、お金はかかるしバイトの時間も削られるし、と逃げ回っているうちにどんどん宙ぶらりんな状態になっていった。 この先中途半端にバレエを続けていても、俺には何が残るだろうか。 そんな風に思い詰めてバレエ教室をやめた直後だったから、ヒロさんのスタジオに気付いても、中を覗く気分にはなれなかった。 どうせ覗いてもため息が出てくるばかりだ。
だけどあの夜、ヒロさんの姿を見たとき。 しぼみかけていたバレエへの意欲が、甘い憧れのような気持ちといっしょにむくむくと膨らんでいくのを感じた。 あの人とならば、もう一度バレエに向き合えるかもしれない。 行き着く先はわからない。 だけどただ純粋にあの人のところでバレエがしたいと強く思った。 今思えば、それは恋と呼んで差し支えない感情だったと思う。 ただしその時の俺は胸の高鳴りが何なのか気付かなかった。 世界が変わるような高揚に襲われた俺は、それから数日も経たないうちに、ヒロさんのスタジオをたずねていた。 ※※※※※ 「なんか今日来るの早くないか」 「バイトの時間が変わってしまって。着替えて体動かしててもいいですか?」 別にいいぞ、と快く言ってくれたヒロさんはくるりとまた俺に背を向けてスタジオに戻っていった。 (今日も可愛かった……) ロッカーで着替えながらさっきのヒロさんの格好を頭の中で反芻する。 黒のぴったりとした上下に、薄い紫のニットを羽織っている。 まだウォーミングアップで体が暖まっていないのだろう。 ぞんざいに折り返してはいているレッグウォーマーも彼の細い身体のラインを強調していて、つい足首や膝上なんかに目がいってしまう。 ヒロさんの私服は何回か見たことがあるが、その辺りを歩いているふつうの大学生っぽくて、それはそれでとても可愛かった。 だけどレッスン中のヒロさんはがらりと雰囲気が変わる。 例えば上級クラスで怒号を飛ばしながら俺を教えているときや、ヒロさん自身の練習に没頭しているとき、しなやかで力強い身体を汗でびしょびしょにしながら踊る彼の姿は鳥肌が立つほどに美しかった。 もちろん美しいと思うだけならばただの敬愛だろうが、今の俺は完全に恋愛対象として彼のことが好きだった。 だからそんなヒロさんの姿を見て不埒な感情が湧き上がることもしばしばだったから、余計な煩悩に気をとられている暇のないヒロさんの厳しいレッスンはとてもありがたかった。 必死に体を動かしていれば、その時だけはヒロさんへのどうしようもない思いを忘れられた。 だけど今みたいに気を抜いてしまうときはだめだ。 (結局ヒロさんは俺のことをどう思ってるんだろう) ほんの何週間か前の話だ。 ヒロさんが舞台経験のない俺にパ・ド・ドゥを教えてくれるため、俺の手をとってパートナーを務めてくれた夜。 ヒロさんの腰に手を回して肩に抱きかかえた興奮で俺は理性のたがが外れてしまい、気付くと彼の唇を奪っていた。 汗で少し湿った唇に自分のそれを押し当てるようにすると、ヒロさんの背筋が震えるのがわかった。 そこで自分を止めるのは到底無理だった。 そのまま彼の身体のラインをなぞるように手を伸ばすと、ヒロさんは薄く目を開け、途端に驚いたような表情で俺を突き飛ばした。 もちろん俺は突き飛ばされるほどのことをしてしまったわけだし、当然のことだ。 突然あんなことをされて驚かない方がおかしい。 だけど、あの時のヒロさんの顔。 あれは一体どういう表情だったのだろう。 こんなこと自分勝手な考えだと思われるかもしれないけど、最初にヒロさんの唇に触れた一瞬、俺はこう思ってしまったのだ。 もしかしたらヒロさんは俺を受け入れてくれるかもしれない、と。 だけどヒロさんの呆然とした顔を見たらそれ以上迫ることができなくて、結局俺はろくに気持ちも伝えられないまま、その日はスタジオを去った。 意気地なしの俺はこんなことがあったのにも関わらず、ヒロさんとの縁を途切れさせたくなかったので、なるべくヒロさんと二人っきりにならないようにしてレッスンに通い続けた。 あのままヒロさんのスタジオに行くのをやめてしまおうかとも考えたけれど、レッスンの日になると自然と足がそこへ向いてしまったのだった。 やはりヒロさんには離れがたい何かがある。 しかしせっかくヒロさんが俺のために上級者クラスを作ってくれたのに、また一生徒に逆戻りだ。 ヒロさんのカウントに合わせて規則正しく動くだけのただの生徒。 バレエをするヒロさんの姿を近くで見られればそれでいい、そう思おうとした。 だけど、深夜のスタジオで二人で過ごしたあの時間を俺はどうしても忘れられなかった。 別にお互い特別な関係じゃない。 ただ二人で体を動かして、スタジオの掃除をして、他愛もない話をして。 そんな時間がもう二度と戻らないのかと思うと、胸がつぶれそうになった。 そこで俺は初めて気付いた。 これが恋か、と。 無理矢理キスまでしておいて今更な感じだけど、とにかく俺はこの時初めて自分の気持ちに名前をつけて納得していた。 ぼんやりヒロさんの姿を眺めながら思う。 ヒロさんと恋人同士になりたいとかそんな贅沢なことは言わない。 今はただ二人でバレエがしたい。 どこまでも手前勝手な自分に呆れながら、おそるおそるヒロさんに上級者クラスの再開をお願いしてみた。 俺の行動のせいで怯えて断られたら今度こそ諦めるしかない。 ほぼ失恋状態だったのが、次は完全なる失恋状態だ。 それなのにあっさりと。 お前がやりたいならやるまでだ、と。 自分で言うのも何だけど、あんなことをした男と夜に二人っきりで過ごすなんて、ヒロさんは警戒したりしないんだろうか。 お門違いな俺の心配をよそに、ヒロさんはまだ教えたいことがあるからと言ってくれた。 優しいヒロさんは舞台経験のない俺のために、色々なバリエーションを教えてくれていた。 ヒロさんへの思いを差し引いてもそれはとても嬉しいことだったけど、ヒロさんも俺に色んな振り付けを教えるのを楽しみにしていてくれたんだと知った瞬間、俺の気持ちは後悔の淵から一気に喜びへと舞い上がった。 ヒロさんと、またいっしょに踊ることができる。 本当に、それだけで嬉しかった。 もう一つ、ヒロさんは気になることを言った。 俺がまたヒロさんに手を出してしまうことがあっても、そのときはそのときだと彼は言った。 (そのときはそのとき……。) 俺がまたよからぬことをしてしまっても、まさか受け入れてくれる…? それとも次はちゃんとやめろと拒絶するってこと? ヒロさんの真意がわからないまま悶々としていると、有無を言わさずにレッスンを始められてしまった。 久しぶりの厳しいヒロさんにへとへとになってしまったけれど、レッスンが終わる頃には幸せな気持ちで満たされていた。 ヒロさんと二人きりの時間はこんなにも愛しい。 相変わらずヒロさんにパートナーを務めてもらいながら、色々なバリエーションを教えてもらうというレッスンを続けていたある日、 俺とヒロさんの間の微妙な距離に少し変化が生じたのだった。 ※※※※※ 俺が汗をかかない程度に体を動かしている横で、ヒロさんが鏡で一つ一つ動きを確認しながら短いバリエーションを考えていた。 たぶんこれは明日のキッズクラスのための準備だと予想される。 組み込まれているパは単純なものの繰り返しが多く、その日習ったことの復習になっているのだろう。 簡単そうに見えてきちんと練習になる、心配りのある組み立てだ。 俺はストレッチをするふりをして、鏡の中のヒロさんを盗み見ていた。 丁寧で正確な足の運びがとてもヒロさんらしいと思う。 そして何より、この上なく可愛らしい。 エシャッペからパッセで立ち上がり、プリエ、ゆっくりとシングルで回るピルエット、体の正面がまた鏡を向いたら一拍おいて首を傾げる。 ……可愛い。 子供のための振り付けだから自然と可愛い動きになるんだろうけど、とにかくヒロさんがそれを踊るときの可愛さといったらなかった。 どの生徒に対しても結構な厳しいことを言うし、レッスンは毎回真剣そのものだ。 初心者のクラスでも終わったあとはみんな、やっと終わった、という表情で息を整えている。 夜の個人レッスンで散々過酷な練習をさせられている俺はそれを見て笑ってしまうわけだけれど、それもこれもヒロさんの真面目さのあらわれだ。 何をするときでも真面目で真剣なヒロさんだからこそ、可愛い振り付けは全力で可愛らしいのだ。 「休んでるなら、脇にはけてれば?」 つい自分のストレッチもそこそこにヒロさんウォッチングをしていたら、案の定厳しい声が聞こえてきた。 慌ててストレッチの続きを終え、先週からヒロさんに習っているバリエーションの復習を始める。 これはけっこう前から教わっているので、だいぶできるようになっていると思う。 ヒロさんの邪魔にならないように、斜め後ろのあたりで習ったことを復習していると、ヒロさんがこっちを見ていた。 その顔は何ともいえない表情をしている。 教わったことが何一つなっていないとかだったら、もっとあきれたような顔をするだろうし、よくできているんだったらもうちょっといい顔をしてくれると思う。 すると、ヒロさんがぽつりと呟いた。 「やっぱ、足りねーんだよな……」 「えっ?」 足りない?何がだろう。 俺の技術か、それとも真剣味か。 不安げにしている俺に気付いて、慌ててヒロさんが首を振った。 「あ、いや、どこが悪いわけじゃねーんだけど。お前は技術もあるし、何でも真面目にやるし」 思いがけず過分な言葉で誉められてしまったけれど、能天気には喜んでいられなかった。 ただ、とヒロさんは続ける。 「お前さ、今のが舞台になったときどうなるか想像できるか?」 「………舞台、ですか」 予想していなかった問い掛けに、間抜けなおうむ返しで返事をしてしまった。 これが舞台になったときどうなるか。 正直に答えるならば、わからない、だ。 この振り付けはヒロさんが教えてくれて、ヒロさんが相手を務めてくれて、それが俺の中での全てだった。 それが正解かと聞かれれば、たぶん違うだろう。 「お前この舞台見たことないだろ」 「はあ」 ずばり言い当てられて、俺はうなだれるばかりだ。 「舞台を一回見れば、自分たちの踊りがどう見えているかがわかるし、舞台に出ればもっとわかる。そう思って俺は教えてたんだけど」 「……すみません」 「謝ることはねーよ。ただもったいないって思っただけだ。それに、」 一旦言葉を切って、ヒロさんは少し考えるような素振りを見せた。 「それに、そういうのも含めて俺はお前に教えたいと思ってるから」 それだけ言うと、爪先で床を蹴るようにしてうつむいてしまった。 少し長めでさらさらの髪のすきまから見えるヒロさんの顔はほのかに赤い。 どうしよう。 可愛いこの人が、こんなに一生懸命俺のことを考えてくれてる。 じわじわと嬉しい気持ちがこみ上げてきて、ここがスタジオじゃなかったら抱きついていたかもしれない。 ヒロさんの方へ伸びてしまいそうな手を理性でこらえて俺は尋ねた。 「俺に足りない部分はどうすればいいんでしょうか」 ヒロさんの言葉はすごく嬉しかったけれど、俺がこれまで逃げ回っていたものについてを見抜かれ、少なからず俺は動揺していた。 前にもこのことは冗談めかしてヒロさんに話したことがあったけれど、ちゃんとヒロさんは覚えていて、その上で俺のバレエを見ていてくれたのだ。 あれこれ理由をつけて舞台を避けていたことのツケがこんなところで出てくるなんて。 俺の表情が固くなっていたのか、ヒロさんは急いで明るい声を出してくれた。 「そ、そんな深刻になるなって!ほんと、これはただの俺の感想だし……。お前は才能あるし努力もできる奴だから、この先舞台をたくさん知れば絶対もっと上手くなるんだよ!」 そう言ってバーをばんばん叩くヒロさんの目は真剣そのもので、さっきまで落ち込んでいたはずなのについ頬がゆるんでしまった。 「……何笑ってんだよ」 「ヒロさんにバレエを教えてもらえて、俺は本当に嬉しいです」 何を言ってんだか、とヒロさんはむくれてしまったけど、こんなにヒロさんが俺のことを考えてくれてたなんて知らなかったし、本当に俺は幸せ者だ。 このバレエ教室に出会えて、ヒロさんに出会えてよかった。 そのあとすぐにクラスが始まる時間になってしまったけれど、しばらくヒロさんは何か考えているようだった。 ※※※※※ 「できればすぐにでもどこかの公演に連れてってやりたいところなんだけど」 一般の初心者クラスが終わってまたスタジオで二人で体を動かしていたとき、突然ヒロさんが言い出した。 さっきの話をヒロさんなりにずっと考えていてくれたらしい。 それだけでも胸がいっぱいになってしまう。 「いえ、俺のためにそこまでしてもらうわけには……」 「ここまできたら俺の問題なんだ」 ヒロさんは俺の言葉を遮り、目をまっすぐに見つめた。 「お前をずっと見てきて、俺はお前と……」 一瞬、空気といっしょに時間までが止まってしまったかのような錯覚に陥った。 ヒロさんは、俺と………? 何秒か待ってみたけれど、その先に言葉は続かなかった。 よく見ると俺以上にヒロさん自身が困惑した表情になっている。 このちょっと重たくなってしまった空気を振り払うように、ヒロさんはぶんぶんと頭を振った。 「とっ、とりあえずいきなり舞台見まくるのも無理な話だから、ビデオとかで少しずつでもいいから見ていけ。なっ?」 そうまくしたてられて、俺は勢いよく頷いた。 ヒロさんが何を言おうとしたかはわからなかったけど、できるかぎりのことを俺に教えたいと思ってくれていることは十分に伝わった。 一時の絶望が嘘みたいに、今日は嬉しいことの連続だ。 「今やってる演目のビデオとか今度持ってきてやるから」 ありがとうございますと言おうとして、一つ落し穴に気付いた。 「あの、すみません。家にビデオデッキがなくて」 「ああ?DVDしか見られないとかいうやつか?」 「あ、いや、DVDもビデオも何も……」 自分の家には必要最小限のものしか揃えていなかったので、本当に何もなかったのだ。 それを告げるとヒロさんは可笑しそうにお前らしいと笑ったあと、ちょっと考えて言った。 「うーん。じゃあ、このあと時間あるなら俺ん家で見てく、か……?」 「ヒロさんの家にですか?」 この人は。 無防備なのか、ものすごく真面目なのか。 深夜のスタジオで二人っきりというのも俺にとってはアレなシチュエーションなのに、ヒロさんの家にだなんて。 まあ誘われてる、なんて勘違いはさすがにしないけれど、何かしらヒロさんとの距離を縮められるんじゃないかと期待してみる。 ……いけない。 ヒロさんは俺のバレエを上達させたい一心なだけなのだ。 「そしたら着替えたら下で待ってろよ」 そう言ってヒロさんはフロアの片付けを始めた。 俺はロッカーに戻ってざばざばと顔を洗った。 そして思う。 (今日が分岐点だ) 俺のバレエの。あるいは俺とヒロさんの。 ※※※※※ 「お邪魔します」 初めてあがるヒロさんの部屋は、俺なんかの部屋よりもずっと広く片付いている。 目につくのは本棚にぎっしりと並んだ本とビデオだ。 本に至っては本棚に入り切らず、床に横積みになっている。 「じゃあまずは今やってるバリエーションだな」 ヒロさんは本棚から一本のビデオテープを取り出した。 「これ、俺が去年出た舞台なんだ」 テープをセットしながら、簡単に説明をしてくれた。 どうやら今ヒロさんが俺に教えてくれているバリエーションは、去年ヒロさんがやったものらしい。 自分がやったことのあるものの方が教えやすいと思ったそうだ。 いつもはレッスン着を着てスタジオに立つヒロさんを可愛い可愛いと思って見ているけれど、舞台に立つヒロさんは想像したことがなかった。 「全幕は長いから、この部分だけな」 きゅるきゅると早送りをすると群舞が左右にはけていき、ヒロさんたちがあらわれた。 王子様、ではなく村の青年という出で立ちだ。 少しだけ非日常的な装いのヒロさんが眩しくて、俺は画面に釘づけになった。 俺がいつも練習しているバリエーションを、ヒロさんが踊っている。 確かに同じ振り付けなのだけれど、やはり俺のそれとはどこか異なるような感じがした。 「お前は俺の方見過ぎなんだよ……」 ぶつぶつとヒロさんが言う。 「なんか、そういう閉じた感じじゃなくって。周りにモブがいて、目の前には観客がいて」 ビデオの中のヒロさんはちらちらとこっちに視線を投げ掛けてくる。 ロングで撮影されているので細かい表情まではわからないのに、すごくそれを感じた。 「この男はそれを見せつけてるんだ。恋人と踊ってる俺を見ろーって。そんなに純情な踊りじゃない」 ヒロさんの言葉を聞きながら、手に汗をかいていくのがわかった。ヒロさんにはあの日からずっと、全部伝わっていたんだ。俺がどんな気持ちでヒロさんの手をとって、身体を支えて踊っていたか。 体温がどんどん上がっていく。 俺の心臓が跳ねているせいか、それともヒロさんの。 だ、か、ら、とヒロさんが語気を強めた。 「てめーと踊ってると恥ずかしいんだよ!!すげーこっち見てくるし、手は熱いし、強く引っ張られるし……。いつもお前と目が合うから、むしろ俺の方がお前のこと見過ぎなんじゃないかとかお前のこと意識し過ぎてるんじゃないかとか考えちまうんだよ!なんでこんなにお前のことばっかり考えてんだ、俺は……!」 そのままヒロさんは頭を抱えてしまった。 ずるずると沈んでいくヒロさんの後頭部を眺めながら、さっきの怒濤の告白をゆっくりと噛み締める。 ……告白? 告白、だと思う。 そう思いたい。 「ヒロさん」 呼び掛けてもまだ顔を上げてくれない。ビデオのヒロさんはあんなにすました顔をしているのに。 「俺はあの夜からもずっとヒロさんのことが好きです。いえ、もっと好きになりました」 彼が怯えないように、そっと柔らかな髪に手を伸ばした。 指先で梳くと、ほんのちょっとだけ顔を上げてくれた。 「ヒロさんが好きです。ヒロさんとバレエがしたい。ヒロさんに触れたい……」 もはや自分でもうわごとのようになっていて、ひたすら好きだと繰り返した。 これではまたヒロさんに怖がられてしまう。 だけどわずかにのぞくヒロさんの項が赤く染まっているのだとか、細かく震える睫毛だとかを見たらもう自制がきかなかった。 そっとヒロさんが頭を上げる。 そして俺の目をちゃんと見てくれたのを確認すると、ゆっくり唇を重ねた。 ヒロさんが逃げてしまわないように後頭部と腰を押さえてしっかりと抱える。 でもヒロさんから俺の身体に腕を回してくれて、それは杞憂だったとわかった。 食むように唇を動かせば、かすかに汗の味がした。 「野分……」 一旦唇を離すとヒロさんはビデオの電源を切り、また俺の腕の中に戻ってきてくれた。 それだけのことが嬉し過ぎて、何度も何度もキスを繰り返す。 そのうちどちらともなく布団が敷かれたままのベッドへともつれるように倒れこんだ。 眼下に見えるヒロさんの姿はあまりに扇情的で、これまで何回もヒロさんを抱きかかえたことがあるけれど、こんなに手が震えたことはあの夜以来だ。 「野分、震えてる」 「……ヒロさんこそ」 「……うるさい…」 会話らしい会話はそれが最後で、あとは吐息と衣擦れの音の中、夢中で抱き合った。 「俺が一番好きな瞬間は」 呼吸と身なりを整えたあと、ヒロさんが腕の中でぽつりぽつりと話してくれた。
「前奏が流れてて、俺は舞台の幕の後ろにいて、だんだん観客のざわめきが収まっていって。幕が上がるといつも思うんだ。このまま時間が止まればいいのにってな」 そう話してくれるヒロさんの目はきらきらしていて、やっぱりこの人は本当にバレエが好きなんだなあと思う。 そこまでヒロさんを虜にする世界を俺も見てみたいと素直に思えた。 「俺も、その場所へ行けるでしょうか」 「ああ、来いよ。俺は待ってるから」 にっと笑うヒロさんが可愛くてその唇に噛みつくと、やさしく頭を撫でられた。 ※※※※※ 今日も俺はヒロさんのスタジオへ通う。 俺の気持ちを受け入れてもらえたとはいえ、ここではいつもの厳しい先生だ。 「ふらつくな!背が高いのは言い訳にならねーぞ!」 「もっと左だ!相手の動きを意識して動け!」 「……だから視線は俺の方じゃなくて客席、な?」 なかなか煩悩は振り払いきれないけど、目標のできた俺にはどんな練習でもこなせる自信があった。 だけど目下問題なのは。 「やっぱり本番の舞台じゃヒロさんとは踊れないんですか?」 「だから俺は練習のためのパートナーだって言ってるだろうが!男二人で結婚式のパ・ド・ドゥなんかできるかっ!」 ヒロさん相手の練習に慣れ過ぎてしまって、ヒロさん以外の相手が考えられなくなってしまったことだ。 「やっぱ教え方間違ったか……?」 「ヒロさんは最高の先生です!」 「てめーが言うなっ!!」」 穏やかなピアノの音の中、今日もヒロさんの怒号がスタジオに響き渡る。
END
2009/10/04 発行 2009/11/03 再録
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