野分の匂いが好きだった。 好き「だった」と言うと少し語弊があるかもしれない。 別に今はイヤ、とかそういう意味ではないのだ。 もう少し言葉を選ぶとすれば、「昔は野分の匂いを強く意識していた」だろうか。 野分がまだ俺の部屋に通っていた頃、あいつは色んな匂いを引き連れてきた。 花屋のバイトの帰り、大量のおすそわけを両手いっぱいに抱えてきたとき、工事現場で汗まみれになってきたとき、草間園で子供たちと遊んできたとき。 どれもこれも今までの俺には無縁の匂いだった。 今、この部屋の中に野分がいる。 匂いが示す情報はたったそれだけのことなのだけれど、おかげで俺の意識は常に野分に向いていた。 勉強を終えた野分がコーヒーをいれに席を立つ。 俺は素知らぬふりで本を読み続ける。 だけど野分がどこで何をしているかは、不思議と手に取るようにわかった。 そして、気付けば本は1ページたりとも進んでいなかったりする。 意識を全て持っていかれるというのはこのことか、と少し恐ろしくなったりもした。 それは野分が部屋からいなくなったあとも続く。 とくに一晩中ヤりまくった後は一番ひどくて、いつまでの野分が俺を抱き締めていた残滓が消えなかった。 本に埋もれた素っ気ない部屋で、昨日の晩ここで俺を抱いていた野分は今きっとバイトの最中で…、と俺のいない野分の時間を思い浮かべてはあいつの匂いが消えるのを待った。 それほどまでに野分のまとう空気は強烈で、それでいて気付けばいつの間にか消えてしまっていた。 それが今は違う。
同じ家で暮らしていて、四六時中いっしょにいるわけではないけど過ごす時間は以前に比べて格段に長い。 顔を合わせない日が続いても野分を感じられないということはなかった。 本人がいなくても、生活の隅々に野分の痕跡がある。 だけどめっきり野分の匂いというものを意識しなくなった。 いつの頃からだろうか。 たぶんいっしょに暮らし始めてから、だと思う。 風呂上りの野分が本を読んでいた俺の隣に座っても、気付くのは匂いじゃなくて音だ。 試しに野分の寝室へ行き、枕に顔を埋めてみた。 「うーん……?」 両手で枕を抱えて、首を傾げる。 あいつの匂いはこんな感じだっただろうか? 昔のことを思い出そうと試行錯誤していると、あっさり野分に見つかりそのままベッドに引きずり込まれた。
「それは、」 わーわー文句を言いながらも結局おとなしく腕の中におさまった俺の頭をなでながら野分が言う。 さっき何をしていたのかと聞かれて、しどろもどろでお前の匂いってどんなのだっけ、と言ってしまったのだ。 「同化、ではないでしょうか。」 「……同化?」 「同じ部屋に暮らして、同じものを食べて、いっしょに洗濯をして。ヒロさんの生活と俺の生活がいっしょになっちゃってるんですよ。」 目を閉じて一分間考えてみたがそれ以上に妥当な言葉が出てこず、そうかもな、と野分の身体に少しだけ顔を寄せた。 答えを出されてみれば愚問のような気がした。 「非生産的な話題だったな。」 「でも、俺はそれを愛と呼びたいです。」 夫婦が似てくるのも同じ原理だと野分が言った気がしたが、半分まどろんでいたのでもしかしたら俺が言ったのかもしれない。
END 2009/10/22 |