少し早足で家路を急いでいると、ふわりと金木犀の香りがした。 (そうか、もう秋だ。) 花屋のバイトで普段から花に囲まれているけど、こうして街角にあらわれる季節のしるしはやっぱり特別な感じがする。 いつもだったら早く帰ってヒロさんに会いたいと、そのまま通り過ぎてしまうところだったけど、 今日は立ち止まってしばらくその香りに身をひたしていた。 金木犀の匂いは好きだ。 だけどその香りを感じるたびに、胸が締め付けられるような思いが甦る。
※※※ 以前、まだヒロさんといっしょに暮らし始める前の話だ。 ヒロさんのアパートの最寄り駅の近くに金木犀の木があった。 秋が訪れる頃、よくヒロさんとその道を歩きながら今年もまた秋が来たというような話をした。 俺もヒロさんもどちらかといえば積極的におしゃべりをするようなタイプではなかったから、季節がめぐるたびに大体同じような話題になった。 でも俺はヒロさんと話ができるだけで嬉しかったし、去年もそんな話をしたなあと思えることが幸せだった。 同じ話題を繰り返す中で少しずつヒロさんのことを知っていく。 それはヒロさんの思い出の欠片だったり、生活の一幕だったり。 だからヒロさんと話をするたびに俺はヒロさんのことが好きになった。 「金木犀の花って食ったことある?」 「あれって食べられるんですか?」 「や、食用じゃねーと思うんだけど。」 思わず口のまわりを黄色い花だらけにしたヒロさんを想像してしまった。 ……悪くない、と思う。 あの可愛らしい唇から金木犀の甘い匂いがしてきたら、噛み付いて離れられなくなりそうだ。 「ガキの頃、あんないい匂いするんだから食えるかと思ったんだよ。」 「おいしかったですか?」 「…いや、変な味と舌触りだった…。」 顔をしかめるヒロさんが愛しくて、思わずその場で抱き締めたくなる。 ヒロさんの子供の頃は全然知らないけど、話の端々からきっと可愛くて真っすぐな子だったんだと思う。 今のヒロさんといっしょだ。 ヒロさんのことをもっと知りたい。 子供の頃のことも、今のことも、……未来のことも。 だけど、それは。 また二人とも黙ってしまった。 この頃の俺はいつもより輪をかけて口数が少なくなっていたと思う。
理由は、もうすぐヒロさんと離れ離れになるからだ。 アメリカへの留学を決めたとき、ヒロさんになんて告げようかと散々悩んだ。 勝手に留学を決めてごめんなさい? 俺が日本に戻るまで待っててください? どれも言えなかった。 何を言ってもヒロさんを怒らせそうだったし、何よりそれを告げたあとのヒロさんの姿を見て、決心が揺らがない自信がなかった。 『待っててください』は絶対に口にしてはいけない言葉だった。 それを言った瞬間、何もかも意味を失ってしまう。 俺はヒロさんに追い付きたいのだ。 ヒロさんに立ち止まって待っていてほしいわけじゃない。 自分の道を突き進むヒロさんだからこそ、俺はこんなに焦がれているのだ。 アメリカへ旅立つ前日、いつものようにヒロさんと二人、駅への道を歩いていた。 夏も過ぎて日も短くなり、まわりは夕闇だった。 曲がり角を曲がると、鼻腔に金木犀の香りが届いた。 駅が近い。 ここでヒロさんと別れれば、次に会えるのは二年後だ。
そう思った瞬間、周囲を確認する間もなく、ヒロさんの唇に吸いついていた。 「……野分っ!!」 すぐに強い力で押し戻された。 「なんだ、いきなり。」 「…すみません、金木犀の味がするかと思って。」 「アホか。食ったのは一回だけだっつーの。」 「…そうですね。」 俺の態度がおかしいのを察したのか、ヒロさんは軽く呆れただけでそんなに強く怒らなかった。 ヒロさんの声を聞くのも、今日限り。 こんなに大好きな人のもとを自分から離れる俺は馬鹿だろうか。 強烈な金木犀の香りを唇にこびりつかせたまま、俺はアメリカへと旅立った。
※※※
「おかえり。」 「ただいまです。外、金木犀の匂いしてましたね。」 ヒロさんもちょうど帰ったばかりらしく、着替えているところだった。 少し肌寒いらしく、ヒロさんの部屋着もTシャツから長袖のスウェットに変わっている。 そろそろ夜ヒロさんにまとわりついても押しのけられない季節だ。 「そういえばお前さ、金木犀って食ったことある?」 「ヒロさんは子供の頃食べたことあるんですよね。」 「…?前にもおんなじ話したか?」 「いえ、何回でもどうぞ。」 「………!」 ヒロさんは馬鹿にされてる感じだと睨んできたけれど、本当に俺はヒロさんと何度同じ会話を繰り返しても嬉しいことに変わりはない。 それこそ、一生繰り返しても。 この先、ヒロさんと何度も同じ季節を重ねていく。 その中で金木犀の香りも、きっと別れの記憶からヒロさんとの幸せな生活の記憶へと塗りかわっていくだろう。 そんな遠い将来の期待を胸に、金木犀の香りが消えないうちにヒロさんを抱き締めた。 END
2009/09/20 |