「ヒ、ロ、ちゃーん。」 母さんがオクターブ高い声で俺を呼んだ。 イヤな予感がする。 こういう時はたいがいロクなことがない。 「…まだ着替えてないんだけど。」 ちょうど朝起きてパジャマを脱ごうとしたところだった。 しかし返事の声は我ながら警戒心がむき出しだったと思う。 パジャマの裾に手をかけた俺は、母親の次の声でさらにイヤな予感を強めたのだった。 「着替えなくていいから、リビングにいらっしゃい。」 …一体ナニをさせる気か。 ここまで母親の言動に不信感をあらわすというのも情けないけれど、それはおそらく経験則というものだ。 (ちなみに経験則は秋彦に教わった言葉だ。) 朝からメンドーなことにならないといいけど。 すでに元気よく鳴きまくっているツクツクボーシの声を背中に背負い、やれやれと俺は廊下を歩いた。 リビングに入ると笑顔の母さんが俺を迎えた。 その笑顔でにこにこと両手に持って広げているものを見て、俺は凍りついた。 「ヒロちゃん、これ着ない?」 そして母さんはそれを俺に差し出す。 可愛らしい黄色の水玉模様の服を。 「……………俺の?」 思わずマヌケな質問をした俺に母さんがうんうんと頷く。 心なしか目がキラキラとしている。 いや、ギラギラというべきか。 とにかく俺が差し出されたブツとただならぬ母親の様相に呆気にとられていると、 わしっとパジャマをつかまれて、そのまま一気に脱がされた。 「わーっ!何をする!」 小学五年生にもなって母親に服を脱がされるというのはタイヘンなる屈辱だ。 だけど屈辱にうち震える間もなく、かの服を着せられてしまった。 おそろしいほどのハヤワザだ。 そんなわけで俺は満足な抗議の声を上げることもできずに、 朝っぱらからラブリーな服を着て苦い表情をするはめになったのだった。 やはりイヤな予感は寸分違わずに的中した。 「あら〜、似合うじゃない!」 ちろ、と眼下に広がる布地を眺める。 ちょっと大きめの黄色い水玉模様が俺を嘲笑うかのように散らばっていた。 しかも服の裾がミョーにヒラヒラしてる気もする。 ちょっと長さ間違えればスカートって呼ばれるんじゃねーのか…? あとどうしてこんなに袖がふくらんでいるのか。 「なんで男なのにこんな水玉着なくちゃいけねーんだよ。」 「別に男の子だって構わないじゃないの。」 「水玉着るヤツはよっきゅーふまんだって学校で女子が言ってた。」 「まーた学校で変な知識つけてきて!」 とにかく俺はこれ脱ぐぞ、と言おうとして俺は重要なことを思い出した。 あわてて壁に掛かった時計を見る。 あと五分で十時。 …しまった。 「脱ぐぞ、これ!いつも着てるフツーのTシャツあるだろ!」 「どうしたの、いきなり。」 「今から秋彦が来るんだよ!!!!!」 と、言い終わるか言い終わらないかのうちに。 「お邪魔します。」
玄関から聞き慣れた声。 そうだ、あいつはこういうタイミングであらわれるヤツだ。
「いらっしゃい、秋彦くん。ちょうどいいところに来てくれたわね。」 上機嫌の母さんがいそいそと秋彦を呼びよせる。 アホか!!どこがちょうどいいんだ!!! 男はいつでも男らしくあらねば。 なにしろ俺はあいつの隊長なのだ。 いかなるときも男らしくふるまわねばならない。 それがどうしてこんな格好。 「ほら、秋彦くん。この服どう?」 「かわいいと思います。」 「かわいいとか言うなーーーー!!」 よかった、と母さんはさらに調子に乗り始めた。 そしてまたとんでもないことを言い出した。 「実はこれ、お揃いで秋彦くんの分もあるのよ。」 …なんだと……?!
親戚のお知り合いがヒロちゃんにってくださったものなんだけど、兄弟がいるって勘違いされてお揃いでいただいちゃったの、 と同じように秋彦に例の服を差し出した。 「だから秋彦くんに着てもらえばちょうどいいかしらって思ってたの。」 まさか母さんがそんなことを考えていたとは。 これは警戒してもし足りない。
断れ、秋彦!と念じながらあいつの方を見ると、ありがとうございます、と受け取っていた。 受け取るな!バカ! 秋彦とお揃い秋彦とお揃い秋彦とお揃い。 頭の中で母さんの言葉がぐるぐるしている。 俺の頭が暑くて蝉がガンガン鳴いているみたいだ。 そんなバクハツ寸前になっている俺をよそに、母さんはやはり秋彦の上着を脱がせている。 俺の秋彦に何しやがる!!! 秋彦はおとなしく着せられるままにあの服を着ている。 「オイ、嫌だったら言っていいんだぞ…?」 「別に嫌じゃないよ。」 その服を着るのが? それとも俺とお揃いなのが…? つまらないことを聞きそうになる口を一生懸命につぐんだ。 「まああー!可愛いこと!!」
けっこうシリアスな頭になっていた俺の横で母さんが甲高い声を上げた。 はしゃぎ過ぎだ。 「せっかくだから、それで二人で遊びに行ってらっしゃい。」 「んなことできるかっ!」 今でさえ恥ずかしくて死にそうなのに、クラスの奴とかに見られたら…。 そんなことになったら明日から学校に行けなくなるに決まってる。 俺と秋彦、お揃いの可愛らしい黄色の水玉模様。 ……ありえない。 「やっぱりこんな服着るか!」 「そんな、もったいないじゃない。」 「そしたらこんな服汚してやる!秋彦、外で遊んでドロドロのベタベタのグチャグチャになろうぜ!」 「弘樹……、なんかヒワイ。」 「ヒワイ言うな!!!!」 わーわーわめきながら服を脱ごうとしたり脱がせようとしたり、それを止められたり、 秋彦と二人でドタバタしていたら、パシャ、とシャッター音が聞こえた。 「……は?」 振り向くと母さんがカメラを構えていた。 「そんなに嫌なら今撮るしかないわね。秋彦くん、こっち向いてくれる?」 写真を、撮られた。 秋彦とお揃いの服を着て取っ組み合っているところを。 「こら!撮るなっっ!」 「弘樹、あきらめた方がいいんじゃない?」 「お前が言うなっ!」
※
「あ、お揃い。」 野分が目ざとく一枚の写真を拾い上げた。 写真の中にはラブリーな服を着た在りし日の秋彦と俺。 もともと自分が愛想がいいなんて思っていないが、とくにこの時はヒドイ顔をしている。 「なんだか外国の天使の絵みたいですね。」 写真を片手に野分は間の抜けた感想を洩らす。 どこの世界にこんなむくれた天使がいるというのか。 「ヒロさん。」 「……なんだ。」 覚えのあるイヤな予感を感じた。 「俺ともお揃い、着てくれませんか。」 ほらきた。 「断る。」 三十路手前の男がそんな頭がフェアリーみたいな真似できるか、ボケ。 「だってこの写真では着てるのに…。」 「どこが好き好んで着てるように見えるんだ!っつーかガキの頃の話じゃねーか!!」 「外で一緒に着てくれとは言いませんから…。」 「家の中だけペアルックとかのが恥ずかしいだろ!!」 まったく、ただでさえ部屋の外は真夏日の気温だというのに、こいつに突っ込んでいたら熱中症になるのも時間の問題だ。 冷蔵庫で冷えている麦茶を一気飲みすると、野分の手から写真をひったくった。 「あっ、返してください。」 「テメーのじゃねーだろ!」 ぐしゃぐしゃに丸めて燃やそうかと思ったが、捨てられずにダンボールへとしまい込んだ。 いつか実家に送り返してやろう。 というか、何で次から次へとこうしょっぱい写真ばっかり出てくるんだ。 野分が妙なものを呼び寄せる体質なのかもしれない。 「じゃあ、お揃いじゃなくていいんで一緒に出掛けましょう。」 悪びれもせず、野分がにこにこと提案してきた。 「まあ、それならいいけど…。」 なんだかうまく丸めこまれた気がしないでもないが、蝉時雨の下を二人で歩いて出掛けることになった。
END
2009/07/26 |