男の子が女の子のお人形を取り上げて泣かせてしまう、 なんていうのは幼稚園なんかによくある光景だ。 取り上げた人形をあれこれと触っているうちに、女の子が返してと泣き出し、男の子はおろおろと人形を持て余し始める。 どうして男の子は人形を取り上げるのか。 女の子を泣かせたいから? 好きな子にいじわるをしてしまうから? たぶんそれは単純に人形に興味があるからだ、と俺は思う。 俺もそうだったように。 ※ 彼はガードレールに腰掛けて本を読んでいた。 きれいな子がいるな、というのが第一印象だった。 年は大学生くらいだろうか。 ゆるく襟ぐりのあいた服から覗く首元が幼い感じで、高校生と言われても納得できるくらいの容貌だったけれど、 彼のいる場所が大学の正門前だったので、おそらく大学生なのだろう。 時々時計を見ては、またページに視線を戻す。 その様子では、友達でも待っているのかもしれない。 俺の仕事場から彼までの距離は、彼に気付かれずに表情をうかがうのにちょうどいい距離だった。 真剣にページを繰る彼の表情は微動だにせず、時折細くて長めの睫毛が上下する。 首から腰までのラインもまったく動かず、ただ風が吹くたびに栗色の髪がさらさらとなびいた。 (まるで読書人形だ。) 思わずこぼれた心のつぶやきに、自分で苦笑してしまった。 天才人形師が作り上げた読書人形はさながら生きた人間の娘のようで、その美貌に婚約者のいる青年までもが懸想してしまう。 そんな戯曲の空想にひたって俺は愉快になった。 いくら愛の言葉を囁こうが美しい花束を差し出そうが、心をその胸に持たない人形はただ本に視線を落としたまま動かないのだ。 悪趣味な遊びだとは思ったが、彼の前を通り過ぎる人はどのくらい彼を気に掛けるのか気になり、俺は戯れに数え始めた。 七、八人に一回振り返るといったところか。 なかなかの数字だと一人にんまりする。 ただ本を読んでいるだけなのに、不思議と人の目を引くようだ。 戯曲ならば、やがて人形を見初めた愚かな青年を婚約者はなじり、慰め、そして元の鞘に収まって賑やかな結婚式を挙げることだろう。 「それでも、」 俺はこう思わざるをえない。 「人形に触れてみたいと思うのはおかしな感情ではないな。」
黙々と文字を追っていた読書人形はふいに顔を上げ、みるみるその世界が色付いていくかのように顔を綻ばせた。
彼の視線の先には一人の青年がいた。 あれが、彼が待っていた友人なのだろうか。 先程まで本と自分の世界にひたっていたのに、もうまるで違う世界の空気だ。 華やかで、こちらが羨んでしまうような。 その笑顔は、今まで興味半分で彼を眺めていた俺の目を釘づけにさせるのに十分な衝撃だった。 人とはあんな嬉しそうな表情ができるものなのか。 ほら、気付けばこんなにも簡単に心を持っていかれる。
これだから人形を人間だと勘違いして恋に浮かれる男があとを断たないのだ。 彼の心の在処すらわからないのに。 彼に近付けないだろうか。 彼に触れたい。 触れて確かめてみたい。
確かめる?何を? 自分が愚かなことくらい知っていたけれど、この甘美な欲望は俺の心を捕えたままだった。 ※ 彼に近づくチャンスは案外すぐにやってきた。 「部屋をお探しですか?」 人当たりの良さと舌先には自信があったので、彼を自分のテリトリーまで呼び込むことは苦な仕事ではなかった。 彼、上條くんはいとも簡単に俺の罠へと入ってきてくれた。 不機嫌そうな顔をむき出しにするくせに、やたらと無防備な姿を見せる彼。 誰かが自分をさらおうとしていることに驚くほど気付いていない。 お酒、弱いならほどほどにした方がいいのに。 そんなに簡単に他人に心を読ませてしまってもいいの? 彼の酒に付き合いながら、何度そんな言葉が出かかったことか。 人形を欲しがるのは無垢な子供だけではないという考えは、彼の中にはないのかもしれない。 アルコールを含まされ、くったりと動きを鈍くした彼は、俺が手を引くままについてきた。 絵に描いたように悪い大人な自分に呆れたけれど、自分の手の中に彼があることに内心とても浮かれていた。 初めて見たときは潔癖そうな印象だった。 その印象はたぶんだけど間違っていないと思う。 ただ、そんな彼が今俺と扇情的な雰囲気の中にいてくれるなんてズルいだろう? 正直こんな都合のいい展開、おとずれるとは思わなかった。 部屋に着くなりずるりと床に崩れ落ちた彼をベッドに運ぶ俺は、紳士なのか狼なのか自分でもわからなくなりそうだ。 だけどその答えはすぐに判明した。 いそいそと彼の服に手をかける俺は紳士でも狼でもなく、単なる小さな子供だ。 取り上げた人形に夢中になってしまう男の子とかわりがない。 でも今ここにはいたずら坊主を叱るような大人はいなかった。 俺は興味の赴くままに人形遊びを続行した。 彼のシャツに手を伸ばす。 そのままたくし上げると、身体をよじるような反応を見せた。 気をよくした俺は彼のうすい脇腹を撫でると、一気にシャツを脱がせきった。 これでも目を覚まさないということは、悪戯を続けていいというサインと解釈しても良いだろうか。 少し頭を冷やすため自分の上着も脱いだけれど、いっそう情事の真似事のようになってしまい、ますます手を止められなくなってきた。 裸で横たわる彼の身体に下品なところは一つもなく、その膝に手をかけて俺は少しためらった。 このままなし崩しに抱いてしまえる自信はあったけれど、 なんとなく、そうすると彼を安っぽい空気人形に貶めてしまうような気がしたのだ。 彼で性欲を満たしたいわけじゃない。 満たしたいのは途方も無く子供っぽい好奇心だけだ。
それでも少し勿体ないような気はしたので、自分も服を脱ぎ横になった。 彼の顔を眺め、髪を梳く。 こうしていると一時の作り事でも俺たちは恋人に見えるだろうか。 昔から人形でするのはごっこ遊びと相場が決まっている。 と、彼の口元がわずかに動いた。 寝言でも言っているのか。 「どうしたんだい?」 俺は優しい恋人のふり。 「…秋彦…。」 彼の目元が切なげに揺れた気がした。 薄暗いルームランプの下でかすかにその目尻が光る。 「…好きなんだよ…。」 「……ああ。」 君は本当にズルい。 こんな時に、人形のくせに、涙を見せるなんて。
君が差し出した手を俺が振り払えないのを君は知っているの? 俺がどれだけ君に執着しているか知っている? その晩は一人で恋人ごっこを続けながら、どうやったら彼が俺のことを見てくれるのか考えていた。 そんなことを考える時点で俺は相当深みにはまっていたと思うけど、 今腕の中にいる人形はどうしたら自分のものになるのかということで俺の頭はいっぱいだった。 こんなに近くにいるのだから、手に入っても良さそうなものなのに。 ※ 結局俺がとった方法というのが、『悪い大人のふりを続ける』だったからどうしようもない。 だけど、俺は子供っぽい欲望を彼に気付かれたくなかった。 ただ彼を一時の火遊びに誘う胡散臭い大人でいたかった。 たぶん、こちらが本気なのを知られてしまったら彼は逃げてしまうだろう。 彼との距離を保つには仮面をかぶっていなければ。 笑顔の仮面をかぶっていれば、きっと人は離れてはゆかないから。 そうやって彼を騙しながら何度もちょっかいをかけた。 彼は思っていた以上に素直で正直だったから、時折彼が見せる真っ赤に怒った表情を見るたびに、仮面をかなぐり捨てたくなったものだ。 彼のことを無防備だと思っていたけど、そのくせこの美しい人形は頑なに俺のものにはなろうとはしなかった。 これ以上彼に近づくなと俺の心が警笛を鳴らす。 こんな不毛なことを続けるうちに、笑顔の仮面をかぶったまま彼を無茶苦茶にしてしまいそうだ。 …あるいは傷つくのは俺の方かもしれないけれど。 最終的に俺の仮面をはぎ取ったのは彼自身だった。
何度か彼と言葉を交わすうちに気付いた。 たぶん、俺は彼の笑顔を確かめたかったのだと思う。 初めて見たときのあのあふれんばかりの笑顔。
あの表情を一度でいいから俺に向けてくれたなら、俺はためらいなく彼を人形ではなく人間だと信じ、気持ちを告げていたかもしれない。 だけど俺が見ることができたのは、苛立ちと不安と虚勢と、彼の友人への絶望的なまでの思慕の表情だった。 会いたいときだけ会う関係。 それは我ながらいい考えだった。 それなら俺は美しい人形を失うことを恐れずに愛でることができ、彼も人形という殻に自分の痛む心を押し込めることができるだろう。 だけど彼は言った。 俺はアンタとは違うんだ、と。 そう言ってわめき、子供のように彼は泣いた。 君は最後の最後で俺の仮面をはぎ取り、引導を渡してくれたね。 それを見た瞬間今までのイライラは消え、不思議と清々しい気分になった。 期待していたのとは違うけど、そこには俺の求めたものがあったから。 俺の目の前で、彼は魔法が解けたかのように人形から人間へと変身したのだ。 そして俺の好奇心は満たされ、同時にそれは俗に失恋と呼ばれるものだと知った。 失恋なんて自分とは程遠い現象だと思っていた。 本気で恋をしなければ本気で傷つくこともないのだから。 臆病な自分を守る仮面を彼は見事に払いのけたけれど、その痛みは苦痛ではなかった。 最後に奪った唇は、ちゃんと暖かな人間の味がした。
彼と別れた後、もうこの先会うことはないだろうと実感したときに俺は柄にも無く泣いてしまった。 小さな子どもだってきっとこんな喪失では泣かないだろうに。 手にした人形が実は人間で、自分の元から去ってしまったんだなんて言葉、親や先生はきっと信じやしないだろうから。 そんな俺を見て、男はいくつになってもばかなもの、と笑った人がいた。 それでも彼女の差し伸べてくれた手は優しく、 失恋の痛みが薄れた頃に、俺はこの美しくて聡明なスワニルダにいつかプロポーズをするのだと決心をした。 ※
あれから数年後、偶然に彼を見かけた。 誰かと待ち合わせをしているのだろう、相変わらず誰かを一途に思う表情を隠せていないのが可笑しくて、俺はつい笑ってしまった。 だけどその想いにはもう絶望は潜んでおらず、純粋に幸せそうなのがうかがえた。
昔の彼がまとっていたような人形の殻はもうすでに取り去られている。 あの鎧をすっかり溶かしてくれた王子様でも現れたのだろうか。 何にしろ自分も彼も幸せなのは喜ばしいこと、と俺は彼に背を向けた。
彼のあの笑顔は幻ではなかった、ということがわかっただけでいい。 たぶんそのことを教えてくれた背の高い青年に手を振ると、家族の手を引いて雑踏へと歩き出した。 END 2009/07/18 |