眠れない夜、というのは言葉の響きほどロマンチックなものではない。 たとえば修学旅行や合宿の夜。 みんなが寝静まっているのに一人だけ眠れないという状況。 この寂しさ、情けなさはなかなか筆舌に尽くしがたいものがある。 一生懸命目を閉じて寝ようと努力しても目は冴える一方で、 誰か同じように目を覚まさないかと期待しても、周囲からは規則正しい寝息が聞こえてくるだけなのだ。 一人暮らしを始めてからはそんなことすっかり忘れていたけれど、今久々にその気持ちを思い出している。 しっかり目の覚めてしまった俺の横で、野分が健やかな寝息を立てていた。
基本的に早寝早起きという生活習慣を是としているので、ベッドに入って布団をかぶればそのまま眠りに落ち、 目が覚めるのは翌朝目覚まし時計が鳴ったときか、野分が甘ったるい浮かれた声で起こしに来るときだ。 夜中に起きることも少ないし、ましてや眠れないことなどほとんどなかった。 時々帰りの遅くなった野分がごそごそ寝ている俺の横に潜り込んでくることもあるけど、 その時だって気配はわかるけれども、完全に目が覚めることはない。 半分くらい寝呆けたまま野分に好きなようにあやされているような感じがする。 野分が抱き寄せてきたり、頭を撫でたり、唇でまさぐってきたりするけれど、俺の目は半分以上開かない。 最近では野分もその事実を察し、好きなように触ってくるようになった。
野分の大きな身体と暖かな体温に包まれては開く目も開かないというものだろう。 その中でまどろむというのはけっこうな至福だった。 それが今日はどうだ。 ベッドに入ったのは二人いっしょだ。 灯りを落として俺はすぐさま眠りに落ちたと思う。 野分がいつ寝たかは覚えていない。 それでも一時間くらいは眠っていただろうか。 ふいに夢がぱちんと途切れ、俺の目は開いてしまったのだった。 とりあえず目を再び閉じてみる。 しかし俺の意識は一向に深層へと落ちていってはくれなかった。 野分を起こさないようにそっと寝返りを打ち、また目を閉じる。 それでも覚醒しきった意識を持て余すばかりだった。 (……寝れねー。) 言葉にして自覚した瞬間、一気に心細さが俺を襲った。 明日は休みだ。 少しくらい長く寝ていても問題はない。 だから睡眠不足を恐れてはいなかった。 問題は明日ではなく今日、今、この瞬間だ。 眠れない、と悟った途端に夜の世界ががらりと姿を変える。 目覚まし時計の針の音はやけに大きく鳴り響き、いつもだったら気にならないのが、不思議と耳にこびりつく。 見慣れたはずの部屋の風景だって、急に別の世界に迷い込んでしまったかのようによそよそしい。 好きなように打っていた寝返りも、野分はちゃんと寝ているからと思うと、身動きがとれなくなった。 静かに起き出して眠れるまで本を読んでいる、という案も考えたが、おそらくこれも野分を起こしてしまうだろう。 野分が昨日までほぼ休みなしで勤務だったことを考えれば、野分を起こしてしまうようなことは避けたかった。 とは言うものの。
五分以上することもなく暗い部屋で身を固くしていれば、 どうにも退屈になってしまうのは仕方ないことだ。
(…野分、起きないかな。) あいつを休ませてやりたいなんて頭では考えながら、心ではついこんな身勝手なことを思ってしまう。 少しだけ首の角度を変えて野分の寝顔を見つめた。 野分もちょっとだけこちらの方へ顔を向けている。 頬も目尻も緩んでいて、まさにぐっすり、といった様相だ。 濃いめの睫毛が呼吸に合わせてゆっくり揺れるのが妙に可愛らしい。 息をひそめれば、頬に微かに野分の吐息を感じる。 吸って、吐いて。 野分の上下する肩と感じる吐息に合わせて、自分の呼吸の足並みも揃えてみる。 俺の呼息が野分の吸息、野分の呼息が俺の吸息。 お互いの息を交換しあうという一人遊びを繰り返してみたけれど、急に自分のやっていることの恥ずかしさに気付いて口を閉じた。 俺は一体なにをしているのか。 眠れぬ夜の魔法はこんな俺の羞恥心すら吹き飛ばしてしまうらしい。 おそろしいことだ。 結局俺に残された選択肢は、おとなしく寝る努力をするか、黙って野分の寝顔を眺めるか、になってしまった。 野分のまっすぐに閉じられた口。 その唇に触れたい衝動を抑えて、俺は以前聞いた他愛もない話を思い出していた。 口を自然に閉じたとき、少し唇と唇の間があいてしまう人は、幼い頃ミルクを飲んだり指なんかをしゃぶったりする癖が残っているのだそうだ。 野分の顔を見ながら、こいつは子供の頃から指をくわえたりもせず、まっすぐ口を結んで生きてきたんだろうと思った。 生まれ来るみどりごは祝福のしるしに口に銀の匙をくわえているという。 全ての子供は祝福を口に含んでいる。 お前が草間園で拾われた夜、それでもお前の口にはきっと銀の匙があったはずだ。 お前もちゃんと祝福された子供だから。 だから、眠っている時くらい赤ん坊のように口元を緩めてもいいんだぞ?
野分の唇にそっと人差し指で触れた。 目を覚ましたりはしなかったけれど、ふにゃりと口角が緩んだ気がした。 わざと野分を起こすつもりは毛頭ないけど、 もしも偶然野分が目を覚ましたら、起きてくれたお礼に俺からご褒美をやろう。 百数えてから起きたら、十センチだけ身体を寄せてあげよう。 二十数えてから起きたら、手を繋いであげよう。 三つ数えてから起きたら、俺からキスをしてあげよう。 そんな普段なら出来やしないことを挙げていくのが可笑しくて、一人笑いを堪えながらあれこれと想像した。 どうせ野分は目なんて覚まさないだろうけど、考えるだけならタダだ。 今は夜の時間の中で、俺だけが起きている。 何を思っても俺の自由。 俺の世界の中だけの約束事だ。 そう思うと妙に強気になってしまい、俺は数を数え始めた。 (いーち、) 野分は本当に目を覚ますだろうか。 (にーい、) 手くらいなら寝呆けたふりをして繋いでやってもいいかな。 (さん、) 「……ヒロさん?」
「!!!!!!」 ふわ、と野分の目があいた。
「おっ、お前…!!」 寝てたんじゃないのか、と問い詰めようとしたけれど、驚き過ぎて言葉を続けられなかった。 それとも狸寝入りか?いつからだ!? 「ヒロさんも目が覚めちゃったんですか?」 野分がまだ眠そうな目で笑いかける。 …やはりおそるべきタイミングで目を覚ましたようだ。 「お前こそ熟睡してたくせに。」 野分は、見てたんですか、と照れながら言った。 「ヒロさんがめずらしくキスしてくれるっていう夢を見て、びっくりして起きちゃったんです。」 もったいなかったと野分は笑い、俺の髪を柔らかくひと撫でした。 そうしながらも、俺の目の奥をじっと見つめてくる。 「えっと、夢、ですよね?」 こいつのカンの良さにはほとほと呆れたけど、ただの夢だと突き放してしまうには少しばかり俺の思考回路は甘く狂っていた。 「夢だけど、」 野分の顔は直視できなくて、胸に顔を埋めるようにしてやっと一言口にできた。 「夢だけど、嘘じゃない。」 野分が意味を聞き返す前に、その両頬を包み込むようにして触れ、下唇を遠慮がちに吸った。 唇の弾力を感じたらすぐに、舌先が触れ合う前に唇を離した。 「正夢だ。」
そう野分は笑って、俺の肩に腕を回すようにして覆いかぶさり、そのまま再び寝てしまった。 頭上ではすーすーとまた先程の寝息が聞こえてきた。 (こいつは…。) 俺を戸惑わせるためだけに目を開けたとしか思えない。 だけど不思議なことに、俺のまぶたもだんだん重たくなってきた。 どうやら野分の唇といっしょに、眠気まで吸い取ってしまったらしい。 突然襲ってきたまどろみに眠れない夜の世界は終わりを告げ、代わりに夢魔が俺の手を引いた。 仕方ない、と俺は夢の世界に足を踏み出すと、肩に回された体温に身をまかせた。 このままさっきの出来事も夢にしてしまおうと思う。
END 2009/07/13 |