「いつかの王子様」

 

湯気が立ち上る浴室の中、鼻歌でも歌いながら湯につかっていた時のことだ。
野分が帰っていれば、もそもそと身体を洗いおとなしく浴槽に沈んでいるのだが、
一人の時というのはとかく気がゆるみがちでつい鼻歌の一つでも出てしまうというものだ。

機嫌よく湯槽に横たわっていると、ふと窓枠に一匹の蛾がひらひらと飛んでいるのを見つけた。

最初は天井の高いところを飛んでいたのだが、そのまま俺の目線の高さにまで下りてきた。
追い払おうか逃がしてやろうか考えていると、蛾は徐々に俺の顔の方へ近づいてくる。


蛾が俺の唇にぶつかると、ボワンと気の抜けたような音がして蛾は野分になった。


「……なんだこれ。」


湯槽につかった俺の目の前で、野分が裸で立っている。

風呂は裸で入るものだし、この場に野分がいることも俺がいることも、俺と野分が二人で浴室にいることも、俺と野分がどっちも裸なのも、
どれも全部とりたてておかしな事柄はなかったけれど、とにかく俺も野分も呆然としていた。
まったくもってわけがわからない。

しかし落ち着いて深呼吸を一つしてみれば、大人の男が全裸でつっ立っているのは大変まぬけな光景だと気付き、
湯から上がった俺は代わりに野分を湯槽に押し込めた。
すると野分は、りん粉が!と騒ぎだしたので、どこにりん粉があるんだバカと突っ込んでやるとおとなしくなって浴槽に沈んだ。

とりあえず俺は身体をふき服を着て、野分の着替えを取りに行った。

「服、ここに置いておくぞ。」
「…すみません。」


俺はリビングの椅子に座って、この数分間に起きたことを整理してみる。
風呂に入っていたら、浴室にいた蛾が突然野分になり、現在に至る。
一言で説明するならば、こうだ。

一体あいつはどこのカエル王子だというのだ。

俺の記憶にどこか間違いはないだろうか。
実はこっそり野分が帰ってきたのに気付かなかったとか。
蛾に気をとられて野分が浴室に入ってきたのに気付かなかったとか。
いや、でも確かにさっきの野分の表情は驚きの顔だった。

「頭痛くなってきた。」
イライラと指でテーブルをこづいていると、ようやく野分が風呂から出てきた。
その頭を見れば黒髪がしっとりと濡れており、俺がこんなに気を揉んでいるというのにこいつは頭まで洗って出てきたらしい。
まったく呑気な奴だ。

気まずそうに俺の顔をうかがう野分を向かいの椅子に座らせた。
そしてしばらく野分の言葉を待つ。
客観的に見ればとてもシリアスなシーンだ。
恋人が二人向かい合って座り、重苦しい雰囲気の中言葉を待っている。
しかし議題は、「野分はなぜ蛾になっていたのか」だ。

馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

「あの、」
野分がやっと口を開く。


『ヒロさんをおどかそうとしてすいませんでした。』
『まったく、お前が入ってきたのに全然気付かなかったぞっ。』
『もう、ヒロさんってば。』
『ははははは。』
『あははははは。』


…みたいな会話に続くかとわずかな期待をしていたのだが、それは見事に裏切られた。

「どうやら魔法で蛾にされていたみたいです。」

やっぱりそうくるわけか。

「……で?」
もういい。
聞くだけ聞いてやろう。

「突然俺の前に大きなクマのぬいぐるみがあらわれて、ヒロさんを泣かせている罰に蛾にしてやるって。」
「蛾になった俺はとにかく家に帰ろうと。それでヒロさんにキスしたら元に戻るかと思ったんです。」

「…風呂場でよかったな。」

俺はそう言うのが精一杯だった。



「ヒロさん、すみません。」
ここで俺は初めて気付いた。
野分の表情は気まずいのではなく、申し訳ないという気持ちを表しているのだということに。
しかし俺をおどかそうとしたならばともかく、野分の言うとおりの事情だったなら(真偽はわからないが)俺に謝る必要はないだろう。
何から何までわからないという顔をしてみせると、野分は言った。

「俺はヒロさんをいっぱい泣かせてしまいました。」
「は…?何言って……。」

そりゃまあ俺の涙腺はここぞというときにとても脆くて、のた打ち回りたくなるような大泣きを何度かした覚えはある。
だが断じて言わせてもらうが、俺は「野分に泣かされた」と思ったことは一度もない。
ただちょっと俺が冷静になれなかっただけのことだ。
ベッドで野分の腕の中で気付くと顔が涙でぐしゃぐしゃになっていることもある。
だけどしつこいようだが、その時だって「野分に泣かされた」なんて思ったことはない。
まあ、ただ、その、ちょっと気持ち良すぎたりとか、そういうことだ。
それをなんだってこいつは人の事をまるでいじめられっ子みたいに言うのだろうか。

「蛾になって、ヒロさんのお風呂場に入って行って。俺は見たんです。」

ヒロさんが心からくつろいでる笑顔を。

「それを見た瞬間俺は思いました。ああ、俺は蛾にされてしまっても仕方ないって。」

ちょっと待て。
「いきなり話が飛躍したような気がしたんだが。」
どこをどうすれば自分が虫にされてしまっても仕方ないと思えるような出来事があったというのだ。
というか上機嫌で鼻唄をうたっていたところもしっかり見られていたようだ。
俺がさっきまでテレビで流れていたどうでもいいようなCMの曲を口ずさんでいる間、蛾に姿を変えた野分は悩み苦しんでいたというわけだ。
そんなこと、誰が想像できようか。

「ヒロさんの笑顔がもう一度見たい。人間の姿で笑顔のヒロさんを抱き締めたい。俺はヒロさん許してくださいって祈ってヒロさんにキスをしました。」
そう言われるとややロマンチックに聞こえるが、俺から見た視点ではただ蛾が口にぶつかっただけだ。
そして魔法は解け、野分は無事人間の姿に戻れた。
めでたしめでたし、でいいのだろうか。
やはり納得がいかない。

「ヒロさん。あなたをいっぱい泣かせた俺を許してくれますか。」

野分の目は切実だった。
俺がうなずけば今にも駆け寄って俺を抱きしめようという目だ。

しかし俺はそれを許さなかった。

「何勝手なこと言ってんだ、テメーは!!」

何が泣かせただ。何が許してくださいだ。
なんで俺がお前を恨んでるみたいになってんだよ。
お前は本当にわかってない。
俺がどんなにお前のことを……

「お前なんか、もう一度蛾になってしまえっ!!」


俺はそう怒鳴りつけると、怒りを込めて野分にキスをした。

しかし今度は何も起こらなかった。
野分は人間のままで、ただ衣擦れの音だけが聞こえる。

「だから…、許すも許さないもねーよ…。」
「そうですね。」

野分は顔を離すと俺の目をしっかりと見て言った。

「ヒロさんが許してくれなくても、俺はヒロさんを抱き締められる姿でヒロさんのそばにいたいです。」

だったらそうしやがれと耳元でつぶやくと、野分は爽やかな返事をして俺の身体に回した腕に力を込めてきた。
お互い風呂上りで身体が火照っていたけれど、全身に感じるそれは間違いなく野分の体温だ。
さっきまで小さな虫だったとは思えないほどの力強さに嬉しさがこみ上げてきて、俺は野分の首筋に飛びついた。

ちゃぷちゃぷという水音に目が覚め、気がつくと野分の膝の間にはさまりお湯につかっていた。
どうやら野分に風呂に連れ込まれた挙句にいちゃいちゃし疲れて眠ってしまったらしい。
そんな俺を野分は飽きもせず身体を撫でたり髪を梳いたりしていたようだ。

「野分、お前ずっと人間だったか…?」
「ええと、今まで人間以外の生き物だった記憶はとくにないですけど。」
「…だよな。」

なんだか急激に力が抜け、野分の胸板に寄りかかるように崩れ落ちた。
それを嬉しそうに野分が受け止める。

また、つまらない夢を見ていたらしい。

ふと天井の辺りを見ると、蛾が一匹飛んでいた。
俺はごくりと唾を飲む。
「どうかしましたか。」
肩越しに野分の声が聞こえてきた。
「いや、なんでもない。」

よろよろと飛ぶ蛾のために、俺は姿勢を起こして窓を開けてやった。
助かったとでもいうように蛾は窓の外へ飛び去る。
魔法を解いてもらうために恋人の所へ向かうのかもしれない。

振り返って野分を見る。
こいつもこうしてちゃんと人間に戻れたんだからお前もあきらめるなよ、と心の中で蛾を見送った。

 

 

 

 

 


END

 

 

 

 

2009/06/06