「Get Your Kicks」

 

 

その話は教授とのくだらない雑談から始まった。
きっかけは教授が自分のことをモテるとかモテないとかつまらないことを言い出したせいだったと思う。

「で、小学校の下駄箱で当時の俺は何を見たと思う?」
「さあ。」
脈絡のない話に適当に相槌を打つと、
上條つれないー、とキャスター付きの事務椅子で教授がくるくると回る。
無駄にファンシーな動きだと俺はあきれた。
三回転半して止まり、教授は自分の足でまた正面に戻った。

「クラスで三番目くらいに可愛い女の子がな、俺の靴をそーっと取り出して…。」

ここで満面の笑み。

「なんと俺の靴をはいたんだよ。」

「…それがどうかしたんですか。」
同級生の女の子が自分の靴をはいていたからといって、何があるというのだろう。
俺は心の底から首を傾げた。
とりあえず上司の雑談に付き合うという義務を果たしたと認識した俺は、仕事の続きに戻ろうとパソコンに手を伸ばした。
と、俺の椅子の背もたれにガシッと教授が手を掛ける。
「や、だからそれが重要なんだって!」
「一体どのあたりが重要なのでしょう。」
「ええー、上條お前知らないの?」

好きな子の靴をはいて何歩か歩くと両想いになれるって超有名なオマジナイがあるだろうが!

ものを知らない奴め、とでも言いたげな顔で教授は俺を見下ろした。
そんな馬鹿げたおまじないとやらがそれほど有名なのだろうか。
というか、まず突っ込むべき箇所はそこではなく。
「いい年したオッサンがオマジナイも何もないでしょうが。」
仮にもM大文学部教授である。
学会では常に斬新な説を展開し、非難に近いような質問にも怯まずに論破するこの教授殿が、
おまじないだのと女子小学生のようなたわごとで部下の手を煩わせているなどと誰が想像できるだろうか。
いや、むしろ想像であってくれればよほどありがたい。
前回の学会での雄姿が遠い日の幻のようだ。

「…お前こそ最近上司に乱暴な口を聞きすぎじゃないのか。」
「研究では尊敬してますよ。研究では。」
やれやれ、と大袈裟にため息をついた教授はガラガラと椅子ごと自分のデスクに戻ったが、
何か思いついたかのように再びこちらに声をかけてきた。

「じゃあ上條をこれ以上怒らせないように、学術的な話もしてやろう。」

そう言って立ち上がって見せた表情は、否応なく俺を学生のような気分に引き戻すのだった。



「ここで重要なのは、『女が男の足跡を踏む』という行為だ。」

気紛れに始まった宮城教授の特別講義に、俺も仕事の手を止めざるを得なかった。
キュ、とホワイトボードにペンを走らせる音に、身体ごと耳を傾ける。
棒人間がまず描かれ、その足元には塗り潰された黒い楕円。
その足元から立ち上るように矢印が書き加えられた。
「なんですか、その矢印は?」
教授はその質問を待ってましたとでもいうようにいたずらっぽい(やらしいともいう)笑みを向けてきた。

「これは精気だ。」

そう言うと矢印の横に『精気』と書き足した。
「まあ何か霊的なパワーだと思ってくれればいい。」

女は足跡を踏み、そこから精気を得る。
ならば次の展開は俺でも容易に予想できた。

「懐妊、ですか。」
「その通り。」

教授は棒人間にさらに線を加えて妊婦に書き換えた。
足で何か霊的なものを踏んだことにより身籠る、という伝説は古来より各地にあるのだという。
天帝の足跡を踏んで神の子を身籠ったり、龍王の水を踏んで絶世の美女を身籠ったりと、
類型の神話をいくつか挙げて教授はぐるりとホワイトボードの絵の足元に丸を付けた。

「小学生の女の子がそこまで生々しいことを考えているとは思わんが、案外ルーツはそんなとこかもな、なんて思うわけだ。」
何か質問は?、と教授は満足そうに俺を見た。
それならばと俺は手を挙げる。
「その類型の伝説のうち、最も重要な部分はどこになるんですか。」
しばし考えた後、教授はペンでホワイトボードに描かれた棒人間の足元を指した。

「踏む、という行為かな。」

裸足でお百度詣りをするように、自分の足で踏みしめるということに意味があると思うんだよ。
そう言って教授は今にも雪崩を起こしそうな蔵書の山を愛しげに撫でた。
「俺が芭蕉にひかれたのはそこかもしれんな。」
ギリギリのバランスでその中の一冊を引き抜き、地図のページを広げた。
なるほど芭蕉とは切り離せないテーマの一つは旅だ。
教授はそこに魅力を感じているのだと思う。
「実際に自分の足で日本中を駆け巡る。これが他の公家衆や豪商の歌詠みとは違うところなんだ。」
様々な土地を踏みしめた足の裏からは生命の息吹が流れ込み、歌人はそれを言葉として繰り広げる。
確かに教授のこれまでの論文を読めば、その生命力に誰もが圧倒されることだろう。

「おっと、うっかり真面目な話になってしまった。」
さっさとホワイトボードの内容を消すと、教授は愉快そうに言った。
「いえ、面白かったです。」
これは素直な感想だ。
この人の部下を止められないゆえんでもある。
初めて教授の学生発表を聞いたときの目が覚めるような思いは今でもはっきりと思い出せる。

「ま、よーするにだ。」
教授は続けた。

「彼が帰ってこなくて寂しいときは、彼の靴をはいて気を紛らわすのもいいんじゃないか?」

…前言撤回。
今日も今日とてこの人の部下を止めたいと思う羽目になるのだ。

セクハラです、と言い捨てて俺は部屋を出た。
勢いよくドアを閉めたせいか、雪崩のような音が聞こえてきたが知ったことではない。


 

そんなわけで俺はある靴を見つめていた。
でかくてボロいスニーカーだ。
今日あのあと俺が家に帰ると野分のでかいスニーカーが置いてあり、
もしかして今日は帰ってきている、とぬか喜びをしたところだった。
靴はあっても持ち主は部屋にはいなかった。

ここにあるのは野分の古い靴。

ある雨の日に、このスニーカー穴があいてしまって、と言って足をびしょびしょにして帰ってきたことがあった。
その時俺は早く新しいの買えとキレた挙げ句、そのまま家を飛び出して新しいスニーカーを調達してきてやったのだ。
野分はこっちが恥ずかしいくらいに喜び、俺の買ったスニーカーをはき続けている。

つまり、目の前にあるのは野分が長年はき古した靴だ。
たぶん野分はこの靴で大学に通い、バイトに行き、たぶんアメリカでもはいていたのだと思う。
そこまではけば穴もあくだろう。
俺は手に取ってしげしげと見つめた。
(自分の足で踏みしめる、か。)
野分が夢を描き、その夢に向かって走り続けている間、この靴はずっと野分の足の下にあったのだ。

ここに野分の生きた時間が積み重なっている。

なんだか足の裏が疼いてきたような感じがしたので、
意味もなく周囲を確認するとそっとスニーカーを玄関に下ろし、足を入れてみた。
教授のたわごとを真に受けるなんて馬鹿げている。
それでも俺の足には大き過ぎるそれをはいてみれば、じわじわと温もりが足元から身体全体に広がるような気がした。

そのまま俺はスニーカーの紐を解き、脱げないように結び直した。

ちょっとだけ、これをはいて出掛けてみてもいいだろうか。
思い切って部屋の扉を開ける。
ぶかぶかのスニーカーをはき、野分の足跡を踏みしめて俺は歩き出した。



とは言ったものの外に出る用事などちょっとした買い物くらいしかないので、近くのコンビニで牛乳と夕刊を買って帰るだけになった。
いつもと違う足の感触と自分の足音に妙に楽しくなって、大股で帰り道を歩く。
この靴を履いて野分は俺を追いかけたのだ。
あいつはバカだ。


追いかけるだなんて、
お前はこうしてこんなにたくさんの時間を積み重ねて歩いてきたというのに。


そんなことを考えながら歩いていると、後ろから軽快な足音が聞こえてきた。

「ヒロさん!!」

「…野分…!」
野分は追いついた、と言って横に並ぶと器用に歩く速度を俺に合わせた。
こいつのことを考えてるときにタイミングよく登場されると変に恥ずかしい。
まるで俺が四六時中野分のことを考えているような。
「買い物ですか?」
「ああ、牛乳が切れてたから。」
しかしじっとこちらを見つめる野分の視線は、俺の手にある買い物袋ではなくその先の、
「あの、ヒロさん。」
…まずい。
「一つ聞いていいですか。」
すでに自分の顔が火照っているのがわかる。
爪先と同じくらいの熱さに。

「それ、俺の靴ですよね?」

さっき足音が聞こえた時点で全力で逃げていればよかった。
「こっ、これはだな、ちょっと慌てて出てきたもんだから…!」
「紐、きっちり結んであります。」
「……。」
もはや、言い訳をするのも恥ずかしい状況になっていた。
だけど野分は笑うだけでそれ以上聞いてこようとはしなかった。
二人で黙々と歩いて家路を急ぐ。
「なんだよ。何か言いたいことがあるなら言えって。」
沈黙に耐えられなかった俺の方が先に口を開いた。

「ヒロさんが俺の靴をはいてて、俺はヒロさんがくれた靴をはいてます。」
「…それがどうした。」

「嬉しいです。」

ふーん、とか、あっそ、とかそんなぞんざいな言葉すら出てこなかったのは、
足元広がる温かさが俺を包んで離さないからか、単に呟かれた言葉に照れたからか、それとも自分も同じことを思ったからか。


同じ大きさの靴が並んで歩く。
一歩踏み出すごとに、野分の時間が少しずつ俺の中に流れ込んでくるようだ。
そして俺の中で新しいエネルギーになる。

お前の生きてきた時間。
お前の歩いてきた道。

お前がそんな大切なものを分けてくれるのが、俺はどうしようもなく嬉しいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

END

 

 

 

 

2009/05/21