「純情浮世風呂」

 

風呂は世情を映す鏡とはなるほどよく言い得ているもので、
俺と野分が二人連れ立って風呂屋へ行けば、俺たちが社会で直面する様々な場面の縮図をたっぷりと味わうことができる。
銭湯がコミュニティだったという歴史を俺がいやというほど理解するはめになったのは、まず我が家の風呂の所為である。



「すまん、なんか風呂壊れたっぽい。」

野分にそう告げたあとで、自分の台詞の間抜けさに力なく笑ったが、
どういうわけかその日はお湯がうまく出なかったのだ。
どうも温水器の調子が悪いらしい。
お湯が出ないのは風呂場もキッチンも同じだから、さっきの俺の台詞はやや正確ではないかもしれないけれど、
とにかく湯が出なくて困るのは風呂だ。
修理はどうやら明日になるようだ。
「やかんでお湯沸かして、たらいで行水でもしましょうか。」
野分は呑気なものだ。
「…頭洗うのに何杯お湯要ると思ってんだ。」
今考慮すべきことは、俺も野分も勤労後だということだ。
当然のことながら、勤労の証とでもいうようにしっかり汗をかいている。
デスクワークが主な俺でもそうなのだから、野分などことさら汗を流したいに違いない。
さらにいうなれば俺も野分も明日も仕事があるわけである。
俺も野分も清潔感が求められる職場であり、一日風呂に入らずに出勤など考えられない。
まあ大学の中には何日も風呂など入らず研究に没頭しているような人間も見かけるが、
俺みたいに助教授のようなナンバーツーのポジションの人間はクリーンさが求められるものと自負している。

そんなわけで風呂に入らない、頭を洗わないという選択肢は却下とする。

「うーん、誰か知り合いの家に風呂借りに行くか?」
途端に野分の表情が硬くなった。
あれ?俺何か言ったか?
「…どこに借りに行くつもりですか。」
「は?どこってそりゃ…。」
はた、と考える。
近所で知り合いっつーと、…教授?
いや、それはない。
そんなことをしてみろ。
あの高校生に何をどう噛み付かれるかわかったものではない。
それにあのセクハラ上司の家の風呂を借りる気にはならない。

秋彦の家はどうだ。
あいつん家ならば余裕で客用バスルームの二つや三つありそうな気がする。
野分と二人で借りに行っても許容の範囲内であることだろう。

しかし。

秋彦の家に二人で風呂を借りに行くのはあまりに危険行為過ぎる。
まず何を言われるかわかったものではないし、二次災害も容易く想像でき得る。
なんだ、次の新作は『いっしょにお風呂編』とでもするつもりか。

却下、却下、却下だ。

険しいとまでは言わないが、じっとこちらを見つめる視線を送る野分の頭を軽くはたいた。
「バーカ、何考えてんだ。」
まだ戸惑うような顔を見せていたので、おまけにと頭突きもお見舞いしてやった。
「昔だったらお前ん家に風呂借りに行ったんだけどな。」
そういうと野分はやっと表情をやわらかくした。
そして、少し考えるような仕草をしてからぷっと吹き出した。
「すみません。きっとその頃、俺の家に風呂ないです。」
野分があんまり可笑しそうに笑うものだから俺もほっとしてしまい、つられて馬鹿みたいに大笑いした。
そういえばこいつ、まさに苦学生!って感じのアパートに住んでたっけ。
二人暮らしを始めた頃、部屋がキレイ過ぎて落ち着かない、なんてことを言っていた覚えがある。

目尻の涙を指で拭いながら野分があっ、と小さく叫んだ。
「そうだ、俺の昔のアパートの近くに銭湯があったはずです。」
俺もそう言われて野分のアパートの周辺を一生懸命思い出そうとした。
野分は懐かしそうに話し出した。
昔、あのアパートに住んでいた頃、野分は俺といっしょにそこへ行きたかったらしい。
「でもヒロさんに『いっしょにお風呂に入りに行きましょう』なんて言えなくて。」
野分は肩をすくめた。
今じゃ臆面もなく連呼しやがるがな。
当時のまだ殊勝だった(生意気ではあったけれど)野分とのことが思い出されて、
何か甘酸っぱいものが胸に数滴落ちた感じがした。

すれ違ってばかりいた、付き合い始めのあの頃。
その穴を今から埋めに行っても間に合うだろうか。
なんて、そんな甘い台詞は言えるはずもないが。

「行くか?その風呂屋。」
「…本当ですか!?」
「ま、たまにはいいだろ。」
仕方ない、という顔をしてみせると野分は嬉しいですと尻尾をぶんぶん振りながらナチュラルに手を握ってくるので、
それを勢いよく振りほどき、そうと決まればさっさと支度すんぞと部屋に向かって踵を返す。

背後では野分の鼻歌が聞こえてきた。



簡単にまとめた荷物をかかえ、野分と道を歩く。
俺も野分も部屋着にサンダルというラフな格好だ。
別に風呂屋に行くのには適当な格好だとは思うのだが、ふとガラス窓に映った自分たちの姿を客観的に見てしまう。
(これ、生徒とかに見られたらどーすんだ…?)
そう思った瞬間、己の無防備さを後悔した。
折しも差し掛かったのはウチの学生がよく通る道だ。

「おい、野分。ちょっと俺を隠せ。」
「えっ?」

向こうから俺の講義をとっている学生が歩いてきたような気がしたのだ。
やはり帽子と眼鏡は必須だったか?
いやむしろ眼鏡はしていない方が俺だとバレにくいだろうか。
うんうん唸りながら野分の背中に隠れると、野分が笑顔で振り向いた。
「隠すってこんな感じでいいですか?」

そう言って両手を俺の肩にかけ、ぬっと顔を近付けてきた野分を、
伝説のカウンターパンチもかくやという勢いで殴り飛ばしたとしても、俺に非はないはずだ。

「てめーは往来で何してんだっ!」

しかし大男がよろめいたはずみで周囲の注目が集まってしまったのは誤算だった。
「あれ、あの人…?」
と囁きあう彼女たちの顔にはやはり見覚えがある。
ここは足早に立ち去るに限る。
俺は体の向きを斜めの方向に保ちながら全力でその通りを駆け抜けた。

おかげで銭湯に到着する頃にはすっかりいい汗といやな汗の両方をかいていて、
風呂を浴びるのがまったく楽しみになったということだ。



「いいじゃないですか、銭湯くらい堂々と行っても。」

苦笑する野分を睨みつけて銭湯の入り口をくぐる。
堂々としていればいい、という野分の言葉は正論だ。
俺がどうしてあそこまで取り乱したかといえば、
『恋人と二人でお風呂』というシチュエーションを俺がガンガン意識しているからなわけで。
風呂が壊れたから仕方なく銭湯にきている、というスタンスを気取っているが、
今の俺は内心野分の動向ばかり気にしている。

他の客の目があるのに、俺は野分の前で裸になって大丈夫なのか。
湯船で野分がじゃれついてきたらどうするか。
背中流しましょうと言われたら素直に洗わせるべきか。

悶々と考え込んでいたため百円玉と十円玉を間違えて出してしまい、番台のおばちゃんに怒られた。
すかさず野分が俺の分のお金を出した。
あらあらと甲高い声をあげるおばちゃんに野分が愛想よく微笑む。
「…自分で出すし。」
「二人まとめて払った方がわかりやすいですから。」
嬉しそうにしている野分の考えていることは大体わかったので若干イラッとし、
あいつがトイレに行っている間にさっさと服を脱いでロッカーにしまい、浴室へ向かった。

浴室を見渡せば、入っているのは地元民とおぼしきオッサンたちだ。
若い奴もいるにはいるが、圧倒的にオッサンが多い。
野分が入ってくる前に、と大急ぎで頭と体を洗う。
そこまでムキになることもないとシャンプーを泡立てながら思ったりもしたが、
仲良く二人で隣に腰掛けて背中を流し合う、なんてことも俺にできるわけがない。

自分の難儀な性格に多少辟易しながら泡を流し終えると、
「ヒロさん、体洗うの早過ぎますよ。」
野分が隣へやってきた。
「は、早くさっぱりしたかっただけだ。」
何気なく野分の胸元に目をやると、脱衣所のロッカーの鍵が揺れている。
普段アクセサリーの類とは縁のない野分だから、そのたくましい裸の胸にペンダントを下げているようで、妙にドキドキした。

…ってアホか、俺は。

これ以上公共の場で野分にときめいていてはかなわない。
俺は立ち上がり湯船に向かった。
「あ、ヒロさん、あの…。」
何か言いたそうな野分を無視して俺は背を向けた。
しかし。

(視線を感じる…?)

どうも浴場ですれ違う人たちが俺らを振り返って見ているような気がする。
二、三歩あるいたところで、それらの視線は主に野分に注がれていることに気付く。
(あいつデケーから目立つのかな。)
野分に気付かれないように後ろを見ると、あのでかい背中を気持ち小さく丸めて頭を洗っていた。
その表情が見えたわけではないが、いつものしょぼんとした犬の顔がつい頭に浮かんできて、もやもやとしたものが胸に広がった。
「…くそ…っ」
舌打ちをしながら湯船に足を突っ込むと予想以上に熱く、思わず飛び退く。
今度はそーっと爪先からゆっくり湯に入ると、そのままぶくぶくと顔までつかった。

俺は何をやっているんだ。

風呂が壊れたから仕方なく銭湯に付き合うなんてただの口実だってこと、自分が一番よく知っているだろう。
ここに来るための荷物をまとめていたとき自分が何を考えていたか、覚えていないわけがない。

野分がまだ大学生だった頃の思い出話をしようか。
野分がいたアパートの今の様子を見に行ってみようか。
せっかくだから背中くらい流してやろうか。
二人で湯につかって百数えようか。
いっしょに腰タオルのまま牛乳一気飲みをやろうか。

浮かれていた自分がバカみたいだ。

自分がこんな性格なのはよくわかっているはずなのに、なんでこう毎回つまんねー夢見てしまうんだ。
絶えることのない後悔の泡は、いつまでも俺の口から生まれては消えた。



ふと湯船の対角線上にオッサンの輪ができていることに気付いたのは、
堂々と野分の様子を伺うことができずにどうしようか思案しているときだった。

あの輪の中心にいるの、野分じゃないか?

目を凝らさずともすぐにわかる。
裸のオッサンたちに囲まれているのは間違いなく野分だ。
(俺の隣に来ずにオッサンに囲まれてるとはいい度胸だな。)
心の中で理不尽な悪態をつきながら、野分とオッサンらの話に耳を傾ける。

「いやあ、今時あんたみたいな若いのがいるとはねえ。」
「ほんとにさ。ウチの孫に爪の垢煎じて飲ませてやりたいよ。」

大人気でけっこうなことだ。

別にそいつのツレですと輪に入っていく義理もなく、さらに会話を聞いていたのだが。
一人の爺さんの言葉に、熱い湯につかっているのにも関わらず俺は凍りついたのだった。

「あんたのようなのが婿にきてくれたら安心なんだがなあ。」
「ちょっとウチの孫娘と会ってみないかい?」

その言葉に触発されるようにして、ウチの孫娘に、いやウチの姪にの大合唱となった。
こいつ、外面がいいとは思っていたが、ここまでとは…。
「そういうのは本人の気持ちもあると思うので…。」
やんわりと断りつつも、あまり野分は困った顔をしているようには見えない。
ふむふむまんざらじゃないってことですかね、と俺の拗ねがマックスに達したところで、
野分は俺の方を見て特上の笑顔を披露した。

「すみません、俺には大切な人がいるので。」

はっきりとした口調で抑揚をつけ、野分は言ってのけた。
俺の方を見て。
さっき凍りついた体が、今度は一気に沸騰しそうになるのを感じる。

「そうですよね、ヒロさん?」
爺さんたちが口々に残念がる中、野分は俺に同意を求めてきた。

そうなのかね、と問い掛ける中、俺は黙ってうなずくことしかできなかった。
おそらく彼らは俺を野分の友人か何かだと思っており、
そんな俺が『こいつが一人でほざいてるだけです!!』なんて言えるわけない。

「将来いっしょになるつもりなのかい?」
「はい、俺はそうなりたいと思ってます。ですよね?」
うなずく俺。

「そんなにいい人なのかね。」
「はい、世界で一番可愛い人だと思ってます。ですよね?」
さらにうなずく俺。

「その子もきっとあんたをすごく好いてるんだろうねえ。」
「ええ、そう思うんですけれど。」
ちら、とこちらを見る野分に、ヤケになってぶんぶんうなずいてやった。

それじゃああきらめようか、とオッサンらは高血圧や糖尿の話へと話題を変えていった。

うなずき過ぎて頭がクラクラしてきた俺は湯船から上がり、ロッカーへ向かった。
今日という今日は本気であいつを叱り飛ばさなければ。
だって、自分への惚気話をあんなにもうなずいて聞くはめになるなんて、一体どういう罰ゲームだ。
ロッカーに手をついて特大のため息をつくと、先程の爺さんが俺の肩をぽんと叩いた。

「兄さんにもきっと今にいい人ができるよ。」

素敵な恋人のいる友人を見て落ち込んでいる男、に見えたようだ。
爺さん悪い、そいつの恋人は俺なんだ。
信じられないかもしれないがな。

体を拭いていると、上機嫌の野分も上がってきた。
「何ニヤニヤしてんだ。」
「すみません、嬉しくて。」
ばかやろ、俺は肝が冷えたと睨みつけると、逆に野分が表情を真剣なものにした。
真面目な顔で俺の目から視線を離さない。
「な…、なんだよ?」

「あの、銭湯だからといって無防備に身体をさらさないでください。」
「………はぁ?!」

ぽかんとした俺に野分がまくしたてる。
「ヒロさんは気付いてないかもしれませんけど、色んな人がヒロさんの方を見てたんですよ?俺は気になって気になって…!」
「ば…っ、テメーの自意識過剰だろ!」

その時、はっとある考えが頭に浮かんだ。
「風呂でミョーにお前注目集めてたけどまさか…。」
「少しヒロさんのことを見てる人を睨んでしまったかもしれません。」

「…誰もかもがお前といっしょだと思うな!!!」



野分にフルーツ牛乳をおごらせ、二人で飲みながら帰り道を歩いた。
銭湯で色んなことがあり過ぎたせいか、行きよりも落ち着いた気持ちで野分の隣を歩けた。
湯上りの髪に涼しげな風が心地いい。

「たまには銭湯もよかったですね。」
「たまには、な。」

 

 

風呂は浮世の鏡なり

恋も恥も全て裸に

 

 

 

 

 

 

 


END

 

 

 

2009/05/02