「イデア」

 

 

自分が普段から足元に注意せずに歩いているとは思わない。
ただ俺は他の人よりも身長が高いため、足元よりむしろ頭上に注意しなくてはいけないことが多いのだ。
頭の上に気をつけてくださいね、と声をかけられることは誰よりも多い。
足元の何かにつまずくことよりも、頭上の何かにぶつかることの方が頻繁だ。

だからこの日も病院からの帰り道、いつもの帰り道を歩いていたときだって特にぼーっとしていたわけではない。
帰り道はつい、帰ったらヒロさんが家にいるだろうかだとか、
ヒロさんといっしょに何を食べようかだとか考えて浮かれてしまうが、そこまでヒドくはない…と思う。
群れて咲くたんぽぽにヒロさんの面影をみつけたり、さえずるうぐいすにヒロさんの声を思い浮かべたり、いつものことだ。

交差点に差し掛かったところで、もしかして帰宅中のヒロさんに偶然会ったりしないだろうかと視線を上げた瞬間。

俺は突然真っ暗な穴の中に落ちてしまった。



どうしてこんなところに穴が開いているのか。
工事中?マンホールの蓋が開いていた?
それにしたって、気付かないはずはないと思うのだが。

ずいぶん深く落ちてきたような気がする。
上を見上げるが光はなく、ただ真っ暗な闇が続くだけだ。
それでもなんとかここから脱出しなければ、と手探りであたりを調べてみた。
きっと上へあがる梯子か何かがあるはずだ。
すか、と手が空を切る。
梯子はない。
そして、壁もなかった。
この数十秒のうちに俺が得た情報は、ここが限りなく続くただの闇だということだった。

それを悟ったあとも、別段俺は騒いだりはしなかった。
騒いだからといって解決できるとも思わない。
とりあえず今は怪我もしていないし、少しお腹はすいているけれど元気な状態だ。
現状が何かの事故なのか、それとも夢なのか判別できるまで耐えればいい。
「でもヒロさんには心配かけたくないな。」
例え俺が元気でも、ヒロさんに心配をかけるようなことを絶対にしたくない。
まず思いついたことがそれだったので、俺はカバンの中からケータイを取り出そうとした。

そのときふと、背後に微かな光を感じた。
勢いよく振り向くと、ぼうっと白く光る人が俺のすぐ近くに座っていた。

俺の目はおかしいのだろうか。
その姿はどこからどう見てもヒロさんだった。



目の前の彼はヒロさんである。
俺の目がそれを間違えるはずがない。
ヒロさんは白くてだぼっとした服を着ていて、うっすらと発光している。
そのため暗くて自分の姿すらよく見えないのに、彼の姿だけははっきりと見える。
まるで宗教画のようだ。
常にヒロさんのことは尊敬しているしすごい人だと思っているが、目の前のヒロさんはどこか神々しささえ感じさせる。
そう、俺なんかが触れてはいけない人のような。

「ヒロさん?」

呼びかけても彼は答えなかった。
俺が何を言っているのかわからない、という風にこちらを見つめている。
「ヒロさん、ですよね?」
静かに彼は首を振った。
一応俺の言っていることは通じているらしいということは分かった。
「俺は野分です。」
自分でも馬鹿だと思ったがこう名乗ってみた。
彼はその通りだ、とうなずいた。
この人はヒロさんではないけれど、俺が俺だと知ってくれている。


全くもって困ってしまった。


どうしようもないので、また他にすることもないのでこのヒロさんによく似た人をじっと見つめた。
ちょっと眦が下がり気味な目をぱちぱちさせたり、首を傾げてみたり、可愛い。
でも彼はヒロさんじゃないのだから、可愛いと思ったりすることは不貞にあたるんだろうか。
ごめんなさい、ヒロさん。
まさか俺はこんな形で不貞をはたらいてしまうことになるとは思ってもみなかったです。
しかし、この人は俺がじっと見つめても照れたり暴れたりしない。
それはけっこう嬉しいことだったりするけれど、ヒロさんが俺の視線に気付いて照れて怒ったりする時みたいな胸がきゅんとする感覚はない。

照れないヒロさんと胸が高鳴らない俺。

しみじみと素直じゃないヒロさんの魅力を噛み締めた。
真っ暗な世界に浮かんでは消える怒ったり暴れたり拗ねたりするにぎやかなヒロさんとの日々。
ここ数日間でもずいぶんとひどいことを言われたような気がする。
うぜえ、離れろ、お前なんか他人だ、さっさと出て行け…。
…あれ?ちょっと涙出てきた。
思った以上に散々なことを言われているのに気付いてしまったが、問題はそこではない。
重要なのはそんなヒロさんは俺のことを好きでいてくれる、ということだ。
どんなひどいことを言われようが、どんな乱暴をされようが、ヒロさんは俺のことが好き。
魔法の言葉だ。
ほら、もう涙も乾いてしまった。


俺は決心して目の前の彼に言葉をかけた。

「あなたはヒロさんではないんですよね?」

彼はやはりうなずいた。
「俺はヒロさんのところへ帰りたいです。」
帰らなくちゃ行けないんです。
ヒロさんのところへ。
きっとヒロさんは俺をずっと待っていてくれるから。

ヒロさんによく似たその人は、ヒロさんにそっくりの笑顔でうなずいてくれた。
そして、すくと立ち上がると初めて口を開いた。

「お前が存在するならば私は『ヒロさん』になろうと思う。」

その言葉の意味を理解する間もなく彼は大きな翼を広げて俺を引っ張りあげると、高く舞い上がった。
暗闇から反転、眩しい世界へと放り出された。


羽ばたきの音が聞こえなくなり、おそるおそる目を開けてみると俺は家のドアの前に立っていた。



ドアを開ければそこはちゃんと俺の家だったし、ヒロさんがおかえりと出迎えてくれた。
まだぼんやりとしている頭でヒロさんをじっと見つめていると、飯だからさっさと手を洗ってこいと怒られた。

よかった、ちゃんとヒロさんだ。

急に力が抜けてしまってしがみつくようにヒロさんを抱き締めようとしたら肘鉄を繰り出されたのでおとなしく手を洗いに行った。
ずきずきと痛むわき腹も今は嬉しいの一言だ。
さっきのことを話したら笑われるどころか疲れているんじゃないかと物凄く心配されそうなので、黙っていることにする。
「なんだ、ニヤニヤして。」
夕飯の間もヒロさんのことを見つめていたら、ヒロさんの冷たい声が飛んできた。
「いえ、好きだなあって思って。」
何の話だか、とつぶやいてヒロさんは赤くなった。

ごちそうさまにかこつけて、ヒロさんに向かって手を合わせて拝んでみる。
ヒロさんはヒロさんでいてくれてありがとうございます。


今日出会った彼が何者なのかも、その言葉の意味もわからない。
(俺がいるから彼はヒロさんでいてくれる、か。)
とても自分に都合のいい言葉のような気がしたけれど、その言葉は妙に胸に馴染んだのだった。

だから今日も明日も俺はそんなヒロさんのことを好きになるのだと思う 。

 

 

 

 

 


END

 

 

 

 


2009/04/05