「ハニー・スタイリッシュ」

 

 

手のひらで温度を確かめたカフェオレは十分ぬるくなっていたので、一口すすった。
俺にはこのくらいの温度が丁度いい。
カップを置き、またレポートに視線を戻す。
この時間のファミレスは学校帰りの学生が多くて賑やかだ。
賑やかなのは嫌いじゃない。
カランカラン、とお店のドアベルが鳴ったので入り口を見れば、また制服姿の女の子たちが入ってきた。
ちょっとため息をついてから手元のレポート用紙を見て苦笑してしまった。
まだ数行しか進んでない。
書き始めてから何十分経ったというのだ。
レポートに集中できていないのは、周りが騒がしいからじゃなくて。

ドアベルが鳴るたびにそっちを見てしまうから。
ヒロさんを待っているから、というわけだ。

ヒロさんと待ち合わせをするときは大体ヒロさんが先に待っていてくれて、
俺はその愛しい姿を見つけて必死に走る、というのがいつものパターンだ。
ヒロさんはいつも不機嫌そうな顔をして本を読んで待っているのだけれど、
何回目かの待ち合わせで、それが待たされて不機嫌になっているのではなく、
そういうヒロさんのポーズだと気付いたときの感動といったらなかった。
ただ俺はどこかヒロさんに関してまだまだ臆病だから、
どれくらい待っていてくれたんですか?とか、俺と会うの嬉しいですか?なんてこと聞けない。
だからつい、
「…お待たせしました。」
「…うん。」
みたいなそっけない会話をしてどちらともなく移動する、ということになるのだ。

今日はその逆で、俺がヒロさんを待っている。
ヒロさん早く来ないかな。
さっきからドアと時計ばかり見ている気がする。
ヒロさんも俺を待つ間、こうやって俺のことばっかり考えててくれるんだろうか。
そんなことを思い浮べれば、申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが一度に襲ってきて、ますます俺は落ち着かなくなる。
えーと、今までヒロさんと待ち合わせした回数×今までヒロさんを待たせてしまった平均時間、
それがヒロさんが俺のことを考えていてくれた時間の合計、と。
そんな都合のいい計算式が成り立つのかな。
レポート用紙の端に筆算をやり始めたところで、今日聞くのが何度目かわからないドアベルが鳴った。

ヒロさんは入ってきた。

ピカピカのスーツに身を包んで。

「悪い、なんかまだバタバタしてて。」
「いえ、俺も今日は時間ありますし。」

店に入るなりすぐに俺の姿を見つけてくれたヒロさんは、謝りながら俺の向かいに座った。
その間、俺はヒロさんのことをずーっと見ていた。
てっぺんから爪先まで。
そしてヒロさんが怪訝そうに俺を見たときに、ふっと認識した。

そうか、ヒロさんはもう社会人なんだ。

俺たちが付き合い始めてからすぐに、俺は大学生、ヒロさんは大学院生となった。
研究という目標に邁進しているヒロさんはやっぱりすごい人だと思うけれど、
まだまだ学生には変わりないからな、と本人は言っていた。
具体的に大学院で何をしているのかはヒロさんから聞く話でしか知ることができなかったし、
俺も心のどこかでお互い学生同士、なんてことを思っていたのかもしれない。
ヒロさんも学生、俺も学生。
二人並んで歩いていたって、他の人の目にはごく一般的な風景だろう。
春は可愛らしい色のパーカー、夏は明るい色のTシャツ、秋は落ち着いた色のネルシャツ、冬は暖かそうなニット(ちょっと袖が長い)、
ヒロさんみたいに可愛い人なんてキャンパスを探してもいないんじゃないんだろうか、
なーんて俺は季節が変わるたびに浮かれていたものだ。

今一度ヒロさんの格好を見る。

一番上まで留めあげたYシャツのボタン、きっちりと締めたネクタイ、足元の革靴はしっかり磨かれて黒光りしている。
すごく新鮮だ。
可愛いなんて言ったら絶対に怒られるけど、可愛い。
だけれど目の前の愛しいこの人は、誰が見ても立派な大人の男の人。
一年前の春に浮かれている自分に警告してやりたい。
ヒロさんはひとつ季節が移っただけでこんなにも姿を変えてしまうんだぞ、と。

「職場、忙しいんですか?」
自分の情けない動揺をできるだけ隠して尋ねた。
ヒロさんは盛大にため息をつく。
「それがさ、ずっと尊敬してた先生の研究室に入れたと思ったんだが、研究室という名の樹海でなー。」
とりあえず自分の仕事ができる環境を確保するために蔵書整理に明け暮れてるんだ、と楽しそうな愚痴を交えて教えてくれた。
今まで一匹狼でやってきた人だから、これからは俺が秘書みたいな仕事もしなくちゃいけないとか、
それでもここなら俺のやりたかった研究ができそうだとか。
「そんなに大変な先生なんですか?」
「あんだけスゲー研究してる人だから只者じゃないとは思ってたが、あらゆる意味で只者じゃなかったっつー話でさ…」

楽しそうな職場で何よりだ。
「なんだか俺も早く社会人になりたいって思っちゃいました。」
俺がそう言うと、ヒロさんは笑って首を振った。
「ばーか、学生は学生時代をちゃんと楽しめ。」

何者でもない自分でいられるのは学生の特権だからな。


ああ、ヒロさん。
その優しい言葉を俺が素直に聞くには、今のあなたは眩し過ぎます。


彼が着ているスーツは、彼が夢を叶えている証拠。
未完成のレポートをバッグにしまう俺はまだ何も持ってやしない。

ファミレスを出て二人で歩いているときも、すれ違う人たちは俺たちがどんな関係に見えるのだろうかとずっと考えていた。
こんなことを考えてしまうなんて初めてだ。
ヒロさんの革靴の音を俺のスニーカーの音が追い掛ける。
人気のない路地に入ったところで初めてヒロさんは立ち止まって俺の方を見た。
吹きつける春風が彼の身体から光の粒子を舞い上がらせたように見えた。
俺は降り掛かった光に戸惑うことしかできない。

「どうかした、か?」
「…いえ。」
「あー…、その、時間あるんだったら俺ん家寄ってってもいいけど。」
「じゃあ、お邪魔します。」

このまま帰ったところでレポートなど手につかないだろう。

部屋に着くとヒロさんはスーツの上着を脱いでハンガーにかけた。
そしてネクタイも外そうとしたので、ほどき終わる前に後ろから抱きついた。

「…なに…?」
「スーツ、すごく似合います。」
赤くなったヒロさんの頬に口付ける。
「お前はせいぜい白衣の似合う男になるんだな。」
茶化しながらも正面からキスをする体勢をとってくれた。
それに甘えて黙ってヒロさんの唇に吸いついた。
舌を舌に、指をネクタイに絡ませる。
衣服を乱したヒロさんの姿はいつもとは違う意味で俺の心を波打たせた。

スーツよりも白衣よりも、ヒロさんに似合う男になりたい。

不安げにヒロさんが喘ぐ。
俺の心のざわめきごと押さえつけてしまおうとその身体を強く抱き締めた。
ベッドの下に散らばるのは俺とヒロさんの脱ぎ捨てた服。

春の風はあたたかくて眩しくて、それでいてどうしようもなく俺の心に重く渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 


END

 

 

 

 

 

2009/03/04