「夕日の窓に映る影」

 

 

「ヒロさん、早く!このバスが最終です!」
「お、おう。今行く!」

あまりきれいに舗装のなされていない道を走る。
じゃり、とスニーカーが小石たちを踏んづけた感触がした。
野分はバスの昇降口に手を掛けながら俺を呼んでいる。
どさどさと抱えているボストンバッグが揺れてとても走りにくい。

ヒロさん、と差し伸べられた手を俺は何の迷いもなくとった。

バスの右側の窓から差し込む西日が眩しい。


間一髪で俺らが乗り込んだバスは他に客がいなかった。
所々黒ずみの目立つ通路を歩いて一番後ろの座席へと向かう。
野分が二人分の荷物を足元に置いたので、俺はそれをまたいで右端に座った。
思いの外座席はふんわりと俺の体重を受け止めた。
続いて野分がその隣に座る。
まるで防風林のような安心感。
西日を遮断するためカーテンを閉めた俺は野分とカーテンに挟まれて一息ついた。

「バス、乗れてよかったですね。」
「そうだな。」

こんな田舎では一日に走るバスの数も驚くほど少ないのだろう。
いつも暮らしている街の慌ただしさが遠い世界の話みたいだ。
「乗り遅れてたら野宿するはめになってたかもな。」
「そうなったらヒロさんが寒くないように俺が一晩中抱いててあげますね。」
真面目な顔でそう言って手のひらを重ねてくる野分を振りはらいもせず、その手を握りながら俺はバスの振動に身を委ねていた。

外でそんなことをするな。
恥ずかしいことを言うな。

いつもならばそう怒鳴るが、今は言わない。

だってここには俺たちを知ってる人間はいないのだから。

少しだけ、肩同士が触れ合うくらいに寄り添って手を繋いだ俺たちを乗せて、バスは夕暮れの道を走る。
でこぼこ道にバスが揺れるたびに野分の肩と強くぶつかり合う。
外が薄暗がりになったので俺はそっとカーテンを開けた。
薄闇に浮かび上がる寄り添った俺と野分の姿。
俺たちのこの姿は運転手から見えるだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。

俺はなんだか満足して目を閉じた。

バスを降りてかすかな光を頼りに暗い道を行くと、小さな宿についた。
木造だがこざっぱりとした造りの建物で、ここに野分と二人で泊まるのだと思った俺は野分を急かすようにして宿の扉を開けた。
野分には俺がはしゃいでいるように見えたかもしれない。

いらっしゃい、と微笑む初老の女性がここの女主人なのだろうか。
彼女はひょいと俺らの荷物を取り上げると二階へついてくるように言った。
俺たちが慌てて彼女について行くと、ソファーでパイプをくわえていたやはり初老の男性が愉快そうに笑った。
彼女のご主人か、となんとなく俺は思った。


案内された部屋は屋根裏部屋に二段ベッドを入れたような部屋だった。
とてもシンプルな造りだ。
それでも小さな窓からは星がよく見えて、俺たちはいい部屋だと喜んだ。
「ヒロさんは上と下どっちがいいですか?」
二段ベッドの前で荷物を持った野分が聞いてきた。
「うーん…、上がいい。」
「じゃあ、俺も上がいいです。」

俺たちは顔を見合わせる。
笑い転げた俺らはベッドによじ登り、どうしたら大のおとなが二人窮屈にならずに並べるか色々と試した。
試しながらちょっとだけキスもした。
野分の唇や指先がくすぐったい。
思わず野分の首に腕を伸ばしかけて、食事の時間だと気付く。
続きはまた後からですね、と笑う野分の頭をはたいて俺たちは一階へと下りた。

食堂では女主人が自ら料理を運んできた。
一つ一つ丁寧に料理の説明をしてくれる。
俺がうまいと言うと野分が今度作ってみましょうか、と言った。
それを聞いた彼女は是非にと喜んだ。

「お友達同士で旅行かしら。楽しそうね。」
メインディッシュの魚料理を持ってきたときに、女主人はそう話し掛けた。

お友達。

どくん、と心臓が跳ねる。
俺と野分はただの「お友達」なんかじゃない。
そうだよな、野分…?
いや、馬鹿か俺は。
こんな当たり障りのない会話、適当に流しておけばいいんだ。
じゃあ俺は言えるのか?
愛想よくそうなんです、と。

俺の中の臆病な部分が返答を野分に任せようとしたのだが、

「恋人、です。」

先に口が動いていた。

「恋人なんです。」

俺の理性が散々に俺の口先をなじる。
わざわざ言うか?普通。
しかも念押しのように二回も言いやがって!
おそるおそる野分の顔をうかがうと、野分も俺に笑いかけながら口を開いた。

「はい、恋人なんです。」

まるきり俺の台詞を復唱する野分。
ああ、忘れてた。
俺も馬鹿だけどこいつも馬鹿だったんだ。

女主人はそれは素敵ね、と言って空になったスープ皿を下げていった。
妙に落ち着いてしまった俺は、出された魚料理に舌鼓を打った。
それをにこにこと野分は見つめていた。
俺たちの他にも食事をしていた客がいたかもしれない。
だけどもうあまり気にならなかった。

食事を終えた俺は無性に眠くなったけれど、こんな夜にとっとと寝てしまうのは勿体ない気がして野分の分のコーヒーももらうと外の空気を吸いに出た。
「今日は特別な星が見えるかもしれないよ。」
パイプをくわえたご主人が俺たちに声をかけた。


食後のコーヒーも夜風も俺の眠気を覚ましてはくれなかったらしい。
まぶたの閉じかかりそうな俺の目に、大きな赤い星たちがまぶしかった。

「ヒロさん、さっきは嬉しかったです。」
「…うん。」
俺の意識は半分以上沈んでいたのでそれが何を指しているのかよくわからなかったが単純に野分が喜んでいるのが嬉しかった。
「またいつか言ってくれますか?」
「いつか?」
「はい。」
「ああ…。いつか、な。」

眠さと星のまぶしさに耐えられなくなった俺は野分の手を引いた。
ごめん、ねむい。やっぱり戻ろう。
野分はわかりましたといって俺を身体ごと抱え上げた。

と、バランスを崩して俺は腰から地面へ落ちた。
ような気がした。



ガク、と足元を踏み外す感覚で目を覚ました俺はあたりを見渡すとそこはいつもの部屋で野分がキッチンで夕食の支度をしていた。
「あ、ヒロさん起きました?」
エプロン姿の野分が俺の顔を覗き込む。
「んー、まだ夕方…、か…?」
「はい、今晩ご飯できますからね。」

目を擦って俺はぼんやりと夢を反芻してみた。
なんだか長いこと夢を見ていたような気がする。
「なあ、俺どれくらい寝てたんだ?」
「ほんの10分くらいうとうとっとしてただけですよ。」

…まあ、夢なんてそんなもんか。

ふわ、と伸びをして俺はカーテンを閉めに立ち上がった。
日が長くなったせいか、窓の外はまだ夕暮れの欠片が残っている。
ピンク色と水色の二層に分かれた空を見て、ふいに自分の声が頭の中に響いた。

『恋人、です。』

短い単語で構成された文章だが俺の胸をきつく抉った。
それは間違いなく俺の声だったから。


人は夕焼けの中に幻を見るという。
じゃあ俺が見たのは何という類の幻だったのだろう。
見果てぬ夢?遠い未来の希望?

ぼんやりとした頭で考える。
俺と野分のことを誰も知らないような土地へ行ったら俺は言えるのだろうか。
野分は俺の恋人だ、と。
こいつは俺のことを大切にしてくれて、だから俺は幸せなのだと。
バスの運転手に。宿屋の夫婦に。見知らぬ旅行客に。
俺は野分が好きなんだと大声で言えるだろうか。
大声で野分に聞かせてやれるのだろうか。


今はまだわからない。
俺にそんな勇気があるのかどうか。
カーテンを閉める間際、夕暮れの窓に映った野分はとても穏やかな表情をしていたので俺はこう呟くに留めておいた。


「いつか、な。」

 

 

 

 

 


END

 

 

 

2009/02/20