「先生のお部屋」

 

 

たくさんの学生が行き来する廊下を、少し落ち着かない気持ちで歩く。
毎日毎日病院の廊下ばかり歩いているからすごく新鮮だ。
一年前は俺も確かに大学生だったけれど、医学部というちょっと閉鎖された世界だったので、
こうやって色んな学部の学生がひしめきあう雰囲気は慣れない感じがする。

ここはヒロさんの神聖な職場。

別な変な目的があって来たわけじゃないけど、
ヒロさんに会うことはいっしょに暮らしている今でも一回一回が特別なことだから、自然俺の足取りも浮ついていた。

『野分、すまん。家の鍵置いてきた。』
バイト中にヒロさんから俺のケータイに電話がかかってきた。

今日の俺の予定は、バイトが終わったら病院に向かい、そのまま今夜は帰れませんコースだったから、
これだと俺が帰るまでヒロさんは家に入れなくなってしまう。
そういえば今朝はヒロさんをまた起こしそびれてバタバタしてたからな。
忘れ物を確認する暇がなかったみたいだ。
ヒロさんの寝顔を眺めるのは好きだけど、これからはほどほどにしておこう。

『悪いんだけど、お前の鍵借りられねーか?』
「はい、それはもちろんいいですけど、いつ渡しましょう?」
『それがなあ…、今日は学校から動けなくて…。帰り掛けに病院に寄ろうかと思ってるんだけど、お前大丈夫そうか?』
「あの、ヒロさんが動けないんなら俺が大学行きましょうか。」
それならバイトをちょっと早めに切り上げさせてもらえばいいだけの話だ。
それに仕事に行く前にヒロさんの顔も見られるし。
『ほんとか?助かる。大学着いたら連絡してくれ。』

きっといつもみたいに門のところで渡すものを渡しておしまいだろうけど、
イレギュラーにヒロさんの顔を見られることになった俺は、うきうきとバイトに励んだのだった。
大学構内で、すぐに俺の姿を見つけて駈けてきてくれるヒロさんを思い浮べた俺を見て、店長がデレデレし過ぎだと言った。
俺の身長がこんなにひょろっと高いのも、ヒロさんがすぐに見つけてくれるようにだと最近はわりと本気で思っている。

というわけで、ヒロさんの大学まで来たのだけれど、
「野分すまん!今ちょっと部屋カラにできなくて。…ったくあの人はどこ行ったんだか…。」
こんな季節だからヒロさんも教授も忙しいらしい。
でも俺はヒロさんの研究室まで顔を出せることが嬉しかった。

大学での助教授としてのヒロさんの顔は、家で俺とくつろいでるときやベッドで甘えてくるときの顔とはやっぱり別物だ。
ヒロさんの可愛さは俺の心を捉えて離さないけど、ヒロさんがただの可愛い人だったら俺はこんなに彼に執着していないだろう。
自分の信念を持っていて、何事にも一生懸命で、それでも時々拗ねたり甘えたり涙を流したり。
そんな人が俺の傍にいて俺のことを好きでいてくれるなんて落ち着いて考えると夢じゃないかと思うけど、
だから俺はヒロさんと並んで歩けるような人間になるために必死で自分の道を進んでいる。
ヒロさんにもっと俺を好きになってもらえるように。


ヒロさんの研究室がある廊下は意外と人が少なくて、俺は少しほっとした。
二人で歩いているときに宇佐美先生に会うと、ヒロさんは隠せないのに俺を隠そうとするんだけど、
たぶんヒロさんは俺を他の人に見せたくないんだと思う。
(俺もヒロさんとは違う理由で彼を他の人に見せたくないけど)
だから俺はノックをしてそっと目立たないように部屋に入った。

「あっ、野分。ありがとうな。」
部屋の中にはヒロさんが一人。
デスクに座ってパソコンと向かい合っていた。
「めちゃくちゃ忙しいってわけじゃないんだが席外せなくて。助かった。」
「いえ、俺もちょうど時間あったんで。ヒロさんに会えて嬉しいです。」

ヒロさんの手のひらに俺の鍵を乗せてあげると、
パソコンから視線を外して俺の方をじっと見たあと、ばか、と言って少し笑った。

…可愛い。

ここが大学じゃなかったらよかったのに!
もしも家だったら絶対にこれだけじゃ終わらせない。
頭を撫でて可愛いですって十回は言って好きですって二十回は言ってそれから…。
「…何考えてんだ。」
ヒロさんのことです、と言おうとした瞬間、ノックの音が聞こえた。

「失礼しまーす。三年の○○です。」

「おっ、おう。ちょっと待て!」
ヒロさんの顔色は一瞬で真っ青になった。
そして俺の胸ぐらを掴むと部屋の中をきょろきょろと見回した。
…もしかして部屋から放り出されるのかな。
ヒロさんのためなら二階から飛び降りても大丈夫だろう、なんてことを考えているとぐいと引っ張られ視界が暗くなった。
何事かと頭を上げようとしたら、強かに頭をぶつけてしまった。

俺が押し込められたのは、ヒロさんのデスクの下。

「てめーはおとなしくしてろよっ。」
あまりのヒロさんの迫力に俺は黙ってうなずいて、ヒロさんの足元にうずくまったのだった。


「あの、私たち来年からこのゼミに配属されることになったのでご挨拶にうかがったんですが…。」
「そうか。悪いな、今ちょうど教授は席を外してるんだ。」
机の下から見上げるヒロさんの顔は紛れもなくお堅い助教授の顔だった。
俺をここに押し込めた後、ヒロさんは慌てて眼鏡をかけていた。
何かこだわりでもあるんだろうか。

普段見ることのできないヒロさんの別面をここぞとばかりにじっと見つめる。
だって、助教授顔のヒロさんなんてめったにお目にかかれない。

ヒロさんと恋人としていっしょにいられることは全世界に向けて自慢したいくらいだけど、
それでも俺が羨ましいと思っている人たちがいて、それはヒロさんの生徒さんたちだ。
射抜くような目、ややドスをきかせた声、一笑もこぼすことのない口元。
そんなヒロさんを見ていると、不思議と真逆の甘ったるい痴態なんかが頭をちらついて、本当に俺はヒロさんに関することでは人間としてどこかおかしいと思う。

「たぶん教授は5時くらいにはここに戻ると思うから、名前と誰か代表で連絡先を教えてもらえるか。」

とりあえずヒロさんはこの学生さんたちを一時追い返して俺から隔離するつもりらしい。
もうちょっとここにいてくれてもいいのに。
俺にはもう少し時間に余裕があるし、もっと助教授の顔のヒロさんを見ていたい。
あ、でもあんまりずっと見てたら色々我慢できなくなるかもしれない。

ヒロさんが学生さんにメモを渡すために身を乗り出したので、ヒロさんの足が俺に迫る。
目の前にヒロさんのきれいな足。
机の下で無理な体勢を強いられていたのと、普段見られないヒロさんの姿を見ていたせいでやっぱり俺は少しおかしくなっていたのかもしれない。

ヒロさんの足を両手でそっとつかんで膝にキスをしてしまった。

もちろんヒロさん以外からは見えないけど、ヒロさんは顔色を変えて俺を睨んできた。
「先生、どうかされましたか?」
「いっいや、ちょっとクモがいたような気がして…。」
しどろもどろになったヒロさんは俺の爪先を踏みつけた。
教師の顔が急に崩れていつものヒロさんになっていくのが妙に興奮をかきたてるので、調子にのってふくらはぎのあたりを撫でさすった。
それから踵ののちょっと上を擦るように指先で撫でてみたり。
怒りたくても怒れないヒロさん。
俺はお堅い上條助教授の間男状態。
完全に俺はどうかしてる。
酸素が足りないみたいだ。

「それじゃあ宮城教授がいらっしゃったら改めてうかがいますね。」

上條先生は爪先まで震わせながら俺に抵抗しきった。

「ばっっっっかやろう!!!何してんだテメーはっ!!!!!」

案の定俺は鬼も逃げ出すかの勢いでヒロさんに叱られた。
「すみません。ヒロさんが好き過ぎておかしくなってました。」
「そんなもん言い訳になるか!!」
げにおそろしきはヒロさんの可愛さ。
いつもこんな調子ではヒロさんの可愛さにおかしくなった俺のせいで、いつの日か二人そろって破滅しかねない。
「鍵のことは助かったけど、とりあえずお前はさっさと出てけ!!」
すごすごと退散しようとしたその時、よく知った声が聞こえてきた。

「かっみじょ〜!ただいま〜。やー悪かったな!留守番させまくって…て…」

この部屋のボスである彼に、ノックをして中を確かめてから部屋に入る義理があるはずもなく。
おそらく彼が目にしたのは、顔を真っ赤にした部下とその足に抱きつく恋人の姿で。

出ていって挨拶しようと思ったが、俺はまたさっきの机の下に押し込まれた。
「…すいません、教授…。今週の教授の雑務引き受けますから10秒だけ目をつぶっててもらえますか…。」
「あー…、来週も手伝ってくれるんなら20秒おまけしてやる…。」

そうして教授の情けで目をつぶってもらっている間に、ヒロさんに蹴り出されて俺はそそくさとヒロさんの研究室をあとにした。
ちょっとだけ悔しかったので、ヒロさんのおでこに軽く唇を押し当ててきた。
次にヒロさんと会えたときにまとめて怒ってもらおうと思う。

廊下を走りながら俺はなんだか無性に楽しくなってしまって、一目も気にせずくすくす笑ってしまった。
ヒロさんがいるだけで、俺の人生はこんなにきらきらしている。

翌日ヒロさんは怒っていたけれど律儀に病院まで俺の鍵を返しに来てくれた。

「お前のおかげでどんだけ俺が教授にからかわれたと思ってんだ!!」
「すいませんでした…。あの、なんて言われました?」
「……犬…。」
「え?」
ヒロさんは小さな声でぼそぼそ教えてくれた。

「……『黒くてでかい犬がじゃれてるのしか見てないからな。』って…。」


好きな人は弱点ですね、お互いに。

 

 

 

 

 

END

 

 

2009/01/18