「三日見ざれば三月の如し」

 

 

はぁ、と俺はため息をついた。

科挙を目指して勉強をしているのだが、ここのところ迷いが生じている。
このまま勉強を続けていても、時間の無駄にはならないだろうか、とか。
決してやる気がなくなったわけではないけれど、
名のある先生の塾に通ったほうがやっぱりいいんじゃないか、
でも孤児の俺にそんな贅沢な学習環境が望めるはずもないし、
…なんてことを考えるうちに、
こうして夜半に月明かりで書物を眺めながらため息をつく時間が増えてしまった、というわけだ。

夜の涼しげな風がさわさわと草たちを揺らし、俺は思わずぶるりと震えた。
妙な雰囲気だ。
周りを見渡せば人ひとりいない草原で…、

あれ?

こんな寂しい場所、俺しかいないと思っていたけれど、ぼんやりと人影が見える。
「…。」
耳をすませば何か言っているようだ。
なんとなく俺は何を言ってるのか確かめたくなって、人影へと近づいた。
「…窈窕たる淑女は…って…。」
「?」

「お前いまさら詩なんかやってて科挙に受かると思ってんのか?」

そう言って呆れたように俺を見上げたその人を見た瞬間、俺はその場に立ち尽くした。
月の光に映し出された柔らかそうな髪、白い肌、長めの睫毛、やや華奢な体。
今まで生きてきて、こんな綺麗な人を見たのは初めてだった。

たぶんこの時俺は恋に落ちたんだと思う。

「…いえ、詩は好きで読んでいただけです。」
あまりに衝撃が大きくて、俺は思わず普通に返事をしてしまった。
途端に湧きあがる数々の疑問。
何でこの人はこんな場所に一人でいるんだろう。
どうして俺が科挙を目指してることを知ってるんだろう。

それから、月がこんなに明るいのに何故この人には影がないんだろう。

じろじろ不躾な視線を送っていたら、その人は慌てたように言った。
「悪ィ…、おどかすつもりじゃなかったんだが…。」
これってやっぱりあれかな?
いわゆる幽霊ってことだろうか。
「すみません、ちょっと失礼します。」
急速に膨らんだ好奇心とちょっぴりの下心に負けて、彼の着物の裾をめくってしまった。
「ばっ…何しやがる!!」
当然殴られてしまったけれど、着物の下にはちゃんと白い足が見えた。
「確かに俺はこの世のもんじゃねェけど、別に足はちゃんとあるぞ?」
そんな風に吹き出しながら、彼は自分のことを色々教えてくれたのだった。

その人、ヒロさんは生前は進士だったそうだ。
それで夜中に科挙の勉強をしている俺を見かけて、気にしていてくれたらしい。
あんなにため息ばかりついていた姿を見られていたかと思うと少し情けない。
この人はあの科挙の試験をくぐり抜けてきたんだなあと思った瞬間、俺はいいことを思いついてしまった。

「俺に勉強を教えてくれませんか?」

図々しいお願いだとは思ったけれど、俺は科挙に特化した知識を教えてくれる人が欲しかったし、
何よりこの綺麗な人と、どうしても離れがたかった。
「本気、か?」
「はい!」
「俺に習うからには基礎学力があることが前提だぞ?」
「はい!」

ヒロさんは俺の顔を見てしばらく考えていたようだったけど、
「よし、これから俺のところへ文章作って持って来い。俺が添削してやる。四書五経の暗記も毎回確認するからな!」
「はい、ありがとうございます!!」
俺は素晴らしい家庭教師を得ることができた。

そうしてヒロさんに勉強を見てもらう日々が始まった。
実際にヒロさんはすごく優秀な人だったようで、どんな文章を作れば採点者の目に留まるか、
自分の考えを余さず表現するにはどうすればいいか、なんてことを惜しみなく俺に教えてくれる。
何より俺の気持ちのほうが大きく向上したと思う。
絶対に科挙に通って、ヒロさんと同じ場所に立ちたい。
その気持ちは日に日に大きくなるのだ。

もう一つ、ヒロさんへの抑えきれない慕わしい気持ちも。

そしてあっという間に試験の日は近付き、明日は試験会場のある遠い街へ向かわなければいけない。
「野分、俺は本番はついていかないからな。」
「はい、大丈夫です。」
幽霊であるヒロさんが俺についてきて、あれこれ指図してくれるのは簡単だ。
でもそれじゃ意味がない。
試験本番は俺一人の力でやらなくてはいけないのだ。
ヒロさんがその思いを汲んでくれたことが、俺はすごくすごく嬉しい。

「ヒロさん、今まで勉強みてくれて本当にありがとうございました。」
「俺がここまで教えてやったんだから、ちゃんと受かってこいよ?」
ぶっきらぼうなふりを装ってそんなことを言うヒロさんが可愛くて、
俺はついその細い腰を抱き寄せてしまった。
ヒロさんは顔を真っ赤にしたけれど、逃げずにいてくれる。
(冗談じゃなく、人間離れした可愛さ!)

そのまま唇に吸いつくと、ヒロさんの体から力が抜けていくのがわかった。
でも唇や頬のひんやりとした感触は、やはりヒロさんがこの世の人じゃないということを示していて。
こんなにヒロさんを思ってても、結ばれることは無理なんだろうか。
ゆっくりとヒロさんの体を押し倒すと、強い力で押し戻された。
「…止めとけ。交わると俺の体はお前の精気を奪っちまう…。」
お前は大事な試験前の身なんだから、とすまなさそうに告げるヒロさんが愛しくて、俺は力の限り抱き締めた。

ヒロさんは俺の腕の中から姿を消し、俺は明朝旅立った。

ドラの音が鳴り、受験生たちが試験会場へと吸い込まれていく。
試験会場は片面壁のない独房のような部屋で、
俺は荷物を置くために渡した板につい頭をぶつけてしまった。
規格外の身長の俺は、部屋自体がすごく手狭だ。
解答を仕上げるまでは、炊事も何もかも自分でやらねばならず、
まさに自分との戦いなのだが、ヒロさんのことを考えると全く苦じゃなかった。
ヒロさんによれば、科挙の試験というのはその人の天命がそのまま出るらしい。

だったら俺の天命はヒロさんだ。

ヒロさんへの思いを堂々と掲げるために、俺は絶対合格するんだ。
解答の一字一字からヒロさんとの思い出があふれ出る。
ヒロさんが何者でも構わない。
俺はヒロさんに相応しい人間になるために、絶対に科挙に通ってみせる。


三度の選抜、殿試を経て、俺は見事合格した。

「ヒロさん!!」
どうしても一番に告げたくて、街から帰るなり、まずあの草原へと駆け出した。
ヒロさんは木陰でこっちを伺うように立っていた。

「ヒロさん!ありがとうございます!全部ヒロさんのおかげです!!」
「と、当然だろ…?」
口ではそう言いつつも、ほっとした表情を見せるヒロさんを見たら、
何十日もヒロさんに会えず積もりまくっていた愛しい気持ちがこみ上げて、
力任せにヒロさんを抱き締めた。
おずおずと背中に腕を回してくれるヒロさんの体はやっぱり冷たかったけれど、
それでも俺にとっては世界で一番大切な人。
「ヒロさんが人間だったらよかったのに…。」
そしたら俺の成長を近くで見てもらって、いっしょに生きていけるのに。
でもヒロさんはこの世の人じゃなくて、永遠に手の届かない人。

と、ヒロさんの体が急に強張った。
「…やっぱり…、人間のほうがいい…か…?」
「え?ヒロさん?」
「ごめん、野分…。」

突然の言葉の真意を確かめる間もなく、ふっとヒロさんは姿を消してしまった。

どうしよう。
俺はヒロさんを傷つけてしまったみたいだ。
『人間だったらよかったのに』、なんてヒロさんの存在を否定するような言葉。
俺はヒロさんが幽霊だって全然構わない。
どんな形でも傍にいてくれるなら、俺は幸せだった。
ただ同じ時間を生きることができたなら、なんて考えてしまっただけで。

「ごめんなさい、ヒロさん!俺、ヒロさんが何者でも構いません。ずっといっしょにいたいです!」

俺の叫びは虚しく無人の草原にこだまする。
ヒロさんに初めて会ったときよりも冷たい風が俺に吹きつけた。


あの後毎日のように草原へ通っても、ヒロさんには会えなかった。
所詮住む世界が違うから、なんて諦められたらどんなにいいだろう。
どうしたらヒロさんにもう一度会えるのか。
その術を俺は何一つ知らない。

さらに俺には時間がなかった。
科挙に合格した俺は、官僚の卵となるべく都へと赴かなくてはいけない。
この町を離れたら、もう二度とヒロさんに会える可能性は…。

せっかく大きな目標を越えたというのに、ヒロさんを失うなんて。
俺は大馬鹿だ。


「…進士様が何情けねー顔してんだよ。」


…え?
顔を上げるとそこには。

「あのなあ、都行ったらもっとしんどい毎日になるんだぞ?こんなとこ通ってねーで他にやることが…」
「ヒロさん!!!!!」

もう二度と会えないかと思っていた。
俺の心を一瞬で奪っていってしまった人。

「ヒロさん、ごめんなさい。ヒロさんを傷つけるようなこと言ってしまって…。」
「は?なんだそれ。」
「いえ、ヒロさん俺の言葉に傷ついて消えちゃったのかと。」
「あ、あぁ、いや、俺が消えたのはだな…。」

よくわからないけれど、ヒロさんは赤くなって口籠もってしまった。

「えーと…、お前さ…、俺が人間になれたら嬉しい…か…?」
それってどういうことだろう?
「だから俺が人間なら嬉しいかっつってんだよ!」
「…はい、それはもう…!」
ヒロさんが人間になれる?
そんなことってあるのかな?
でも本当にそうならものすごく嬉しい。
「ヒロさんがこの世の人になったらすごくすごく嬉しいです!」

「俺はこの数日冥府に行ってたんだが…。」
簡単に言うと、ヒロさんは人間に生まれ変わる手筈をつけてきたらしい。
すごいすごいすごい。
ヒロさんは本当にすごい人だ。
俺が望んでいることを全部わかってくれている。

「それで、その、お前の協力がいるんだ…けど…。」
「はい、何でも協力します。」
上機嫌で答えた俺に、ヒロさんはまた口ごもる。

「あー…、お前の血と、…が必要なんだ…。」
「え?何ですか?」
だ、か、ら!とヒロさんは耳元で怒鳴った。
「〜〜〜〜〜!!」
怒鳴ってヒロさんはこれまでにないくらい真っ赤になってうつむいた。
ヒロさんの言葉を聞いて俺はぽかんとする。
「それって…。」
高揚を抑えられない俺を見て、ヒロさんはこくんと頷いた。


それから先はちょっと勿体なくて口には出せない。
ヒロさんの冷たい口から漏れる熱い吐息だとか、汗とか色んなもので濡れた体だとか、
とにかくヒロさんの全部に夢中になって、みっちり抱き合って、それでも飽き足らなくて、
気付いたらヒロさんは膝の上でくったりと俺の肩にもたれかかっていた。

あー…、ヒロさんに夢中で何にも考えてなかったけど、そういえば俺大丈夫なんだろうか。
幽霊のヒロさんと思いっきり交わってしまったんだけど。
でもヒロさんからいいって言ってくれたんだし。
ダルそうに脱ぎ捨てた着物をごそごそ探ると、ヒロさんは小さな紙包みを俺に渡してくれた。
「これ飲め。」
渡されたのは薬だった。
「この薬飲めば大丈夫なんですか?」
「ああ。無事とは言わないけど、これで体の悪いモン全部出てくから。」
あ、無事ではないんですね…。

俺は薬を飲み、ヒロさんは身づくろいを終えた。
「それから忘れないうちに。」
そう言ってヒロさんは小刀で俺の指の先をちょっと切って、滴る血をこくりと飲み干した。

「よく聞け、野分。」
これから3日後の明朝ここに来い。
そうするとあの木の枝に鳥がとまっているから、その鳥が飛び去ったあと木の根元を掘り返すんだ。

ヒロさんの指示をきっちりと胸にしまいこむ。
嬉しい。
夢みたいな話だ。
「…わかりました。今度会うときは人間の姿で、ですね?」
「うん…。」
「ありがとうございます、ヒロさん。大好きです。」
ばか、と呟くヒロさんに口付けをして、俺たちは別れた。


その後俺は盛大に腹を下して寝込んでいたけれど、3日目には回復して例の草原へ向かった。
ヒロさんに言われた通りにすると、そこにはちゃんと影のある人間のヒロさんが!
(人間になってもヒロさんは相変わらず綺麗だった)

照れるヒロさんを一生懸命口説いて、いっしょに都についてきてもらうことになった。
「男が男養うとか変じゃねえの…?」
「いえ、ヒロさんは俺の客分としてずっと傍にいてください。」
科挙に合格しても、ヒロさんはずーっと一生俺の先生だ。

都での俺の生活は多忙を極めたけれど、それでも家に帰ればヒロさんがいる。
この幸せは何物にも変え難い。
ヒロさんはというと、家の近くに小さな塾を構えて俺みたいな科挙を目指す生徒に学問を教えている。
だから正確には俺だけの先生じゃなくなったわけだけど、夜の可愛いヒロさんは正真正銘俺だけのものだ。


こんな話、他人に話しても絶対に信じてもらえないと思う。
でもヒロさんという奇跡は嘘なんかじゃなく俺の腕の中にあるわけで。

今夜も月明かりの下でヒロさんといっしょに詩を紐解く。
「ヒロさんと俺は偕老同穴、ですね?」
「何言い出すんだ!ボケ!」
顔を背けたヒロさんは、未だにこの世の人じゃないのではと心配になるくらい可愛かった。

 

 

 

 

 

 

 

END

 

 

 

 

 

2008/11/16