「なんかお腹すいたねー、律っちゃん」 「あはは、もう5時ですもんね」 木佐と小野寺がのんきな会話をしているのを、俺は見逃さなかった。 俺の斜め前のデスクでは、そんな会話をよそに羽鳥が黙々と書類をこなしている。 他の奴らがおやつだなんだと甘いものにキャッキャしている中でも、大体興味なさそうに眺めているのも羽鳥だ。 そのくせ有名なケーキ屋だったりすると、その店をチェックするのに余念がない。 大方差し入れにでもするつもりなのだろう。 マメなことだと声をかけたことがあるが、高野さんほどではないですよ、とそっけなく返された。 「さて今日は俺から差し入れがあります」 真面目くさった声色でそう宣言すると、編集部内がざわめいた。 「高野さんがおやつの差し入れ〜?」 「雨でも降るんじゃないかな」 「……珍しいですね」 各々言いたいことを言ってくれるが、一番反応が気になるのはこの男だろう。 相変わらず興味のないそぶりで机に向かっている男。
「まあ俺からというか、正しくはトリからだな。なあ?」 「………っ」 そう言って羽鳥の方を眺めると、ざわめきがさらに大きくなった。
「へえー、羽鳥さん温泉に行って来たんですね」 にこにことお菓子をつまみながら、小野寺が屈託なく話し掛ける。 木佐・美濃の二人はそれをニヤニヤしながら見つめているところだ。 案外この二人がいじるよりも、小野寺の悪気のない言葉の方が羽鳥を追い詰めそうな気がしてきた。 お坊ちゃん育ちなせいか、こいつは他人の悪意や裏側に慣れていない。 自分で性格が曲がったと言っていたが、俺に言わせれば昔付き合っていた頃からそれほど変わっていないと思う。 そしてそんな小野寺は、羽鳥がいつ誰とどうして温泉に行ったかなど全く疑うことなく呑気な質問を投げかけ続けている。 これが作家相手なら、その場で叱り飛ばすところだが、今日の相手は羽鳥だ。 どんどんやれ、と俺は暖かく見守ることにした。 「温泉いいですよね。俺も行きたいなあとは思うんですけど、なかなか時間なくって。あと一人だと行きにくいじゃないですか」 「……確かにな」 寡黙な羽鳥の口数がさらに激減している。 面白いことは面白いが、そろそろ可哀想な気もしてきた。 「ええートリ〜、律っちゃんの質問にはちゃんと答えようよー?」 「そうそう、逃げられないと思った方がいいよ☆」 例え俺が仏心を出したとしても、地獄の釜は開き始めたばかりだった。 じろりと羽鳥は俺の方をにらむ。 言外に、俺を責めているのだろう。 吉川千春と二人で温泉旅行へ行ってきて、お土産を託されたのは今朝の話だ。 どうしても吉川先生がお世話になっているからと俺たちに渡してほしいということらしい。 だからうまいこと言って編集部のみんなでわけてほしいと言われたのだが、どう考えてもスルーはしてもらえないだろう。
俺は悪くない、という表情を作って目をそらすと、羽鳥の眉間の皺が目に見えて深くなった。 「ねーねー、羽鳥ー、誰と行ったのー?」 「ねーねー、もしかして俺たちの知ってる人?」 「あっあの、別に俺はそこまで知りたいわけじゃ……」 木佐美濃が囃したて、その横で小野寺がおろおろする。 ここで陥落して吉川先生の名前を白状するか、それともシラをきりとおすか。 さてどう出るかと楽しみにしていると、羽鳥の擁護に回ろうとした小野寺が地雷を踏んだ。 「べべべ別に羽鳥さんだってそういう人の一人や二人いますよね!!ね!!」 しんと静まり返る編集部内。 頭を抱える羽鳥。 テンションがMAXの木佐と美濃。 さらにおろおろし出す小野寺。
沈黙を破ったのは羽鳥だった。 「吉川千春と温泉に行ってきた。取材も兼ねている。別にやましいところはない」 これで満足か、とため息をついてトリは俺たちを見渡した。 小野寺だけがほっとした顔をしている。 「うん、そんなとこだろーと思ってたけどね」 「つついたら何かおもしろいこと出てこないかなって思っただけだから」 そうしてめいめいに一つずつお土産の菓子を頬張ると、それぞれの席へと戻った。 もうちょっと盛り上がるかと思ったのに、と俺も机に戻ろうとした時、ぐいと誰かに腕をつかまれた。 そのまま廊下まで引きずり出される。 「高野さん!なんでああいうこと言うんですか!!」 羽鳥たちの目に入らない場所まで連れてくると、小野寺が小声で怒鳴った。 小野寺は俺の他に唯一吉川千春が男だと知っているので、何の疑いも持っていないのだろう。 それをあえて何かあるような素振りでお土産を取り出したことを怒っているらしい。 「別に。面白かっただろ」 「全然面白くありません!!」 ぷんすかと怒りながら、小野寺も席へ戻っていった。 「高野さん、こちらの企画書のチェックお願いします」 先ほどの騒動などなかったかのような顔で、羽鳥が俺のところへやってきた。 「ああ見ておく。確か期限はまだあったな」 「ええ」 会釈して帰ろうとする羽鳥の袖口をくいと引っ張って引き止めた。 「………?何か」 「いや、吉川先生に伝えておいて。『ご馳走様』って」 「………」 一瞬ものすごくいやそうな顔をされたけれど、すぐいつものポーカーフェイスに戻って、わかりました、とだけ告げられた。 END
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